血統主義からの転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:14 UTC 版)
「エストニアの国籍」の記事における「血統主義からの転換」の解説
その後、1995年の国籍法改定によって、国籍取得のための居住要件は2+1年から5+1年に延長された。ロシア系政治家やロシア政府は、この延長をロシア人の国籍取得を妨げるものと批判したが、実際には大半のロシア人がこの要件を満たしていた。むしろこの改定の主眼は、居住要件を他の欧州諸国と横並びにすることであった。他方、この改定では民族エストニア人(19世紀にシベリアなどへ移住した人々の子孫など)に対しても新たにエストニア語の能力試験が課されることとなった。これら言語的にロシア化した民族エストニア人に対する措置にあるように、エストニアのネイション意識は民族単位から言語単位へと比重を移しつつあった。 他方、この言語能力試験はロシア人にとっても難易度が高く、同時期の調査ではロシア人の57パーセントが、帰化を申請しない理由に試験への落第を挙げている。また、可能ならば帰化したいと考える者が7割、子供を帰化させたいと考える者が8割に達する一方で、政府は不法滞在者のうち2万4000人とロシア国籍者の2万5000人に対しても社会保障を支給していたため、これもロシア人の帰化努力を阻害したとされる。 また、1995年11月2日に国連自由権規約人権委員会が決定した所見においても、エストニア語能力を帰化要件とする点や、旧体制において行った宣誓が自動的に行政職への採用拒否事項となる点が憂慮されていた。そして、行政職にロシア人・ロシア語話者が採用されにくく、ロシア人がエストニアで差別なく公的サービスを受けることができない現実が指摘された。また同委員会は、1993年に復活した「少数民族文化自治法」(et) の適用制限の厳しさや、長期永住者に対する結社の自由の制限について指摘し、自由権規約第27条に基づくエストニア国内法の修正を強く勧告した。 当初、ロシア人の国外退去を企図して制定された国籍法と外国人法であったが、彼らの多くは失業により合法的収入の要件を満たすことができなかったため、それらの法は不法滞在者を増やすだけの結果に終わった。在タリン・OSCE代表部によれば、1995年4月から1997年1月までの間に、1995年国籍法に基づいて帰化した人数は4282人。そのほとんどがエストニア人を親として出生した子供または孤児であった。
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