蓮生と草刈男の問答
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 15:06 UTC 版)
蓮生は、草刈男らに、草刈がなぜ笛を吹いているのかと問いかける。 ワキ「いかにこれなる草刈たちに尋ね申すべきことの候シテ「こなたのことにて候ふか、なにごとにて候ふぞワキ「ただいまの笛は方々の中に吹きたまひて候ふかシテ「さん候(ぞうろう)、われらが中に吹きて候ワキ「あらやさしや、その身にも応ぜぬ業(わざ)、返す返すもやさしうこそ候へシテ「その身にも応ぜぬ業と承はれども、それ勝(まさ)るをも羨まざれ、劣るをも賤しむなとこそ見えて候へ、そのうへ樵歌牧笛(しょうかぼくてき)とてシテ・ツレ〽草刈の笛木樵(きこり)の歌は、歌人の詠(えい)にも作り置かれて、世に聞えたる笛竹(ふえたけ)の、不審は(な)なさせたまひそとよ(中略)地謡〽身の業の、好ける心に寄竹(よりたけ)の、好ける心に寄竹の、小枝(さえだ)蝉折(せみおれ)さまざまに、笛の名は多けれども、草刈の、吹く笛ならばこれも名は、青葉の笛と思し召せ、住吉の汀(みぎわ)ならば、高麗笛(こまぶえ)にやあるべき、これは須磨の塩木の、海士(あま)の焼残(たきさし)と思しめせ、海士の焼残と思しめせ [蓮生]そちらの草刈たちにお尋ねしたいことがあります。[草刈男]我々のことですか、何のご用でしょうか。[蓮生]ただいまの笛はあなた方がお吹きになったのですか。[草刈男]そうです。我々が吹いていたのです。[蓮生]ああ優雅なことだ、あなたのような身分の人にも似合わないこと、重ね重ねも優雅なことです。[草刈男]その身分にも似合わないこととお聞きしましたが、「まさっている者を羨むな、劣っている者を賤しく見るな」といいます。しかも「樵歌牧笛」という言葉があって[草刈男ら]草刈の笛や、木こりの歌は、古くからの歌人の歌にも読み込まれていて、世に知られているのですから、不審にお思いになりますな。(中略)――笛を吹いて遊ぶのも、身にふさわしい、風流な心に沿ったものです。「小枝」「蝉折」など、有名な笛は多くあるけれども、草刈が吹く笛であれば、その名は「青葉の笛」とお思いください。もしここが住吉の汀であれば、「高麗笛」ということになるのでしょうか。ここ須磨の浦では海士の焼く塩木の焚きさしだとお思いください。 そのうちにツレ(他の草刈男)は立ち去り、シテ(敦盛の化身)1人が残る。その求めに応じて蓮生が念仏を唱えると、男は感謝し、自らが敦盛であることをほのめかして立ち去る(中入り)。 ワキ「不思議やな余(よ)の草刈たちは皆々帰りたまふに、おん身一人(いちにん)留まりたまふこと、何のゆゑにてあるやらんシテ「何のゆゑとか夕波の、声を力に来たりたり、十念授けおはしませワキ「易きこと十念をば授け申すべし、それにつけてもおことは誰(た)そシテ「まことはわれは敦盛の、ゆかりの者にて候ふなりワキ〽ゆかりと聞けばなつかしやと、掌(たなごころ)を合はせて南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)シテ・ワキ〽若我(にゃくが)成仏(じょうぶつ)十方世界(じっぽうせかい)、念仏(ねんぶつ)衆生(しゅじょう)摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)地謡〽捨てさせたまふなよ、一声だにも足りぬべきに、毎日毎夜(まいや)のお弔ひ、あらありがたやわが名をば、申さずとても明け暮れに、向ひて回向(えこう)したまへる、その名はわれと言ひ捨てて、姿も見えず失せにけり、姿も見えず失せにけり [蓮生]不思議なことだ、ほかの草刈たちは皆帰られたのに、あなた1人だけここに留まられたのは、どうした理由なのでしょうか。[草刈男]どうした理由かと言われるが、そのあなたの声を力に来たのです。十念を授けてくださいませ。[蓮生]たやすいこと、十念を授け申し上げましょう。それにしても、あなたはどなたですか。[草刈男]実は私は敦盛のゆかりの者なのです。[蓮生]ゆかりと聞くと昔を思い出して心が引かれる。合掌して「南無阿弥陀仏」[草刈男・蓮生]「若我成仏十方世界、念仏衆生摂取不捨」――お見捨てなさいますな。念仏は一声だけでも十分なはずなのに、毎日毎夜のお弔い、ああありがたいことだ。私の名を申し上げなくても、お僧が日夜回向してくださっている、その人物こそ私ですと言い残して、姿が見えなくなり、消えてしまった。
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