苻健の時代
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成長すると勇猛に成長したが、しかし性格は凶暴で殺戮を好み、また多量の飲酒を好んだという。350年1月、蒲洪が大都督・大将軍・大単于・三秦王を自称し、自らの姓を苻に改めると、蒲生もまた苻生と名を改めた。351年1月、苻健が天王・大単于の位に即くと、苻生は淮南公に封じられた(前秦の成立)。352年1月、苻健が帝位に即くと、淮南王に進封された。 354年3月、東晋の征西大将軍桓温が前秦への侵攻軍を率いて到来すると、苻生は兄の皇太子苻萇・叔父の丞相苻雄・従兄の衛大将軍苻菁・弟の北平公苻碩らと共に迎撃を命じられ、5万の兵を率いて駐屯した。桓温との交戦が起こると、苻生は自ら陣頭に立って敵陣に突入し、10数回に渡って出入りして敵旗を奪い取り、将軍の応誕・劉泓を始め10数人の武将を討ち取って1000人を殺傷した。だが、桓温もまた兵を率いて力戦したので、最終的に前秦軍は大敗を喫した。桓温は各地で転戦しながら前進し、遂に長安の東面にある灞上にまで迫り、周辺の郡県は尽く桓温に降った。しかし前秦軍は関中の作物を尽る刈り取る焦土作戦を展開した上で、後退して守備を固め侵攻を阻んだ。これにより東晋軍は兵糧不足により撤退を開始したが、苻生らは桓温を追撃し、潼関において幾度もこれを撃破し、数万の兵を討ち取った。7月、桓温撃退の功績により、苻生は中軍大将軍に任じられた。 10月、皇太子苻萇は桓温との戦いで矢傷を負い、それが原因で亡くなった。355年4月、新たに太子を立てる事となると。母の強皇后は晋王苻柳(苻生の弟)を皇太子に立てる事を望んだが、苻健は讖文に「三羊五眼」の一節があったとして、苻生を皇太子に立てた(三頭の羊に眼は五つという事は、眼が一つ失われている。また、苻生は三男であった)。 6月、苻健が病床に伏せるようになると、苻生の従兄の苻菁は兵を率いて東宮に入り、苻生を殺して自立を図ろうとした。この時、苻生は西宮において看病に当たっていたので、苻菁は既に苻健が死んだものと考え、東掖門を攻撃した。だが、苻健が姿を現すと、苻菁の兵は逃散した。苻健は苻菁を捕らえて処刑した。 苻健は病が篤くなると、重臣の太師・録尚書事魚遵・丞相雷弱児・太傅毛貴・司空王堕・尚書令梁楞・僕射梁安・太保段純・右司馬辛牢らを呼び寄せ、苻生を輔政するよう遺詔した。また、苻生が凶虐であった事から家業が保てないのではないかと憂え、苻生へ向けて「六夷(胡)の酋師や大臣の中で、もし汝の命に従わぬ者がいれば、少しずつ除いていくように」と言い残した。数日すると苻健は亡くなった。苻生は苻健を景明皇帝と諡し、廟号を高祖とした。
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