苻堅に従軍
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太元8年(383年)8月、苻堅は東晋征伐を決行すると、陽平公苻融に驃騎将軍張蚝・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成・平南将軍慕容暐・冠軍将軍慕容垂・前将軍乞伏国仁・龍驤将軍姚萇らを始めとした総勢25万を与えて出撃させた。また、ほかにも涼州・益州・梁州・幽州・冀州を始め、全国各地より軍を出撃させた。苻堅自らもまた総勢87万を超える大軍を率いて長安を出発し、朱序もこれに従軍した。 9月、苻堅の本隊は項城へ到達し、苻融率いる前鋒軍は潁口へ到達した。対する東晋は征討大都督謝石・前鋒都督謝玄・輔国将軍謝琰・西中郎将桓伊らが兵8万を率いてこれを迎え撃った。 10月、苻融らは寿春を陥落させ、慕容垂は鄖城を攻略した。梁成らは兵5万を率いて洛澗に進み、幾度も東晋軍を破った。謝石・謝玄らは洛澗から25里の所まで進軍したが、梁成軍の勢いを憚り、これ以上進めなくなった。 苻堅は大軍を項城に留め、騎兵八千のみを率いて寿春へ向かった。また、東晋軍に降伏を促そうと考え、朱序をその使者に抜擢した。朱序はこれに従って謝石らの陣営へ赴くと、苻堅からの伝言として「強弱の勢いは明らかである。速やかに降るべきである」と告げた。だが、朱序の心は未だ東晋にあったので、彼は私的な場において謝石らへ「もし秦の百万の衆が尽く至ったならば、これに対するのはまことに難しいかと存じます。今、諸軍は未だ集っておりませんから、速やかにこれを撃つべきです。もしその前鋒が敗れれば、士気を奪う事が出来、破る事も可能かと」と勧めた。謝石は既に苻堅が寿春に到達していると知らなかったので、朱序の発言を聞いて甚だ恐れ、戦わずして前秦軍の消耗を待とうと考えたが、謝琰は朱序の進言に従うよう勧めて決戦を請うたので、謝石もこれを認めた。 11月、龍驤将軍劉牢之は洛澗に駐屯していた梁成軍を撃破し、1万5千の兵を討ち取った。これにより、謝石は水陸両方から進軍を開始したが、淝水の南において前秦の驃騎将軍張蚝に敗れた。その後、前秦軍は北に引いて淝水の近くに陣を布いたので、両軍は淝水を挟んでにらみ合いの状態となった。
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