若御子対陣
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本能寺の変後の天正10年(1582年)8-10月にかけて、後北条氏と徳川氏が上・甲・信地方の領有を巡って争った若御子対陣 のとき、(推定天正10年・1582年)9月13日付の書状で、北条氏政は風間出羽守に「大手陣」(氏直の軍勢)の戦況が有利だと伝え、当方と示し合わせて攻勢に出るよう伝えている。 北条氏政書状(佐藤行信氏所蔵文書)原文仮訳注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能々首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、(天正10年・1582年)九月十三日 氏政(花押)風間出羽守殿 報告書の趣旨は、なるほどいいと思いました。絵図を描かせて確認してみました。さてところで、大手陣は良いこと続きで、信州・遠州の境で山家三方衆千余人を討捕り、信州は余すところが無くなりました。我々の方面へもきっと使者が確認できるでしょう。毎日、人数が攻撃しているところですので、よくよくタイミングを合わせて出撃してください。今この時こそ、ご活躍ください。謹言(以下省略)
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若御子対陣
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若御子対陣(わかみこたいじん)は、天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後、同年7月下旬から10月下旬まで続いた、甲斐国の若神子・新府における徳川家康と北条氏直の対陣に象徴される、織田信長の遺領を巡る両氏の抗争。10巻本『北条記』や『北条盛衰記』などの近世の軍記で「若御子対陣」と呼ばれており、徳川氏創業史の諸軍記では「家康公の甲州発向」のような言い方が多いが、『参陽実録』に「若御子対陣」の呼称が用いられている。 1980年に田代孝が若御子対陣のことを特定して天正壬午の戦いと呼んで以来、若神子対陣を「天正壬午の乱」と呼ぶ例が多くなっている。
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