若御子対陣とは? わかりやすく解説

若御子対陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:31 UTC 版)

風魔」の記事における「若御子対陣」の解説

本能寺の変後天正10年1582年8-10月にかけて、後北条氏徳川氏上・甲・信地方領有巡って争った若御子対陣 のとき、(推定天正10年1582年9月13日付の書状で、北条氏政風間出羽守に「大手陣」(氏直の軍勢)の戦況有利だ伝え当方示し合わせて攻勢に出るよう伝えている。 北条氏政書状佐藤行信所蔵文書原文訳注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手弥吉連続、於信州遠州之境、山家三方衆余人討捕、信州無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能々首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、(天正10年1582年九月十三日 氏政(花押風間出羽守殿 報告書趣旨は、なるほどいいと思いました絵図を描かせて確認してみました。さてところで、大手陣は良いこと続きで、信州遠州の境で山家三方衆余人を討捕り、信州余すところ無くなりました。我々の方面へもきっと使者確認できるでしょう毎日人数攻撃しているところですのでよくよくタイミング合わせて出撃してください。今この時こそ、ご活躍ください謹言(以下省略

※この「若御子対陣」の解説は、「風魔」の解説の一部です。
「若御子対陣」を含む「風魔」の記事については、「風魔」の概要を参照ください。


若御子対陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:49 UTC 版)

天正壬午の乱」の記事における「若御子対陣」の解説

若御子対陣(わかみこたいじん)は、天正10年1582年6月本能寺の変の後同年7月下旬から10月下旬まで続いた甲斐国若神子新府における徳川家康北条氏直対陣象徴される織田信長遺領を巡る両氏抗争10巻本『北条記』や『北条盛衰記』などの近世軍記で「若御子対陣」と呼ばれており、徳川氏創業史の諸軍記では「家康公の甲州発向のような言い方が多いが、『参陽実録』に「若御子対陣」の呼称用いられている。 1980年田代孝が若御子対陣のことを特定して天正壬午戦い呼んで以来若神子対陣を「天正壬午の乱」と呼ぶ例が多くなっている。

※この「若御子対陣」の解説は、「天正壬午の乱」の解説の一部です。
「若御子対陣」を含む「天正壬午の乱」の記事については、「天正壬午の乱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「若御子対陣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「若御子対陣」の関連用語

若御子対陣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



若御子対陣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの風魔 (改訂履歴)、天正壬午の乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS