若彦路の道筋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/04 02:13 UTC 版)
若彦路の道筋は、『吾妻鏡』では甲府盆地から「大石駅」に至るものとされ、『甲斐国志』ではさらに大石から駿河国井出までを若彦路の道筋としている。現在では、具体的な道筋として甲府盆地南端の奈良原(笛吹市八代町奈良原)を通過し、鳥坂峠を経て芦川村(笛吹市芦川地区)に至り、さらに大石峠を越え富士北麓の大石村(富士河口湖町大石)を経て富士北西麓を駿河国富士郡上井出村(富士宮市)に達するルートが想定されているが、甲斐源氏の通過した「富士北麓若彦路」に関してはこれと異なるルートも考えられている。 『吾妻鏡』において、「富士北麓若彦路」が登場する治承4年10月13日の翌日にあたる同年10月14日条では、甲斐源氏の軍勢は午刻に「神野并春田路」を経て「鉢田」に至り、駿河目代・橘遠茂の軍勢と交戦したと記されている。合戦は甲斐源氏勢が勝利し、目代・橘遠茂を捕縛する。その日の酉刻には討ち取った首を「伊堤」に晒したという。「伊堤」は富士宮市上井出付近に比定されているが、「神野并春田路」に関しては、諸説の考証により中道往還を指すと考えられている。「鉢田」は富士北西麓の甲駿国境付近を指す地名であると考えられており、末木健は本栖湖南岸に所在する「端足峠(はしだとうげ)」に比定する説を提唱しており、海老沼真治もこれを追認している。 このため、『吾妻鏡』に拠れば甲斐源氏の一行は治承4年10月13日に大石駅から「富士北麓若彦路」を通過して駿河へ向かい、翌14日に中道往還を指す「神野并春田路」を通り、端足峠に至った経路が想定される。「富士北麓若彦路」は大石駅から「神野并春田路」を結ぶ道筋であり、『甲斐国志』に記される成沢(南都留郡鳴沢村)から駿河上井出を結ぶ富士北西麓の「中の金王路」のほか、大石から西湖・精進湖を経て中道往還と接続する道を指している可能性が指摘されている。
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