花山院の御遁世(とんせい)をしる事
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「安倍晴明物語」の記事における「花山院の御遁世(とんせい)をしる事」の解説
(前半は『大鏡』「六十五代(花山天皇)」が元になっている) 花山天皇は冷泉天皇の第一皇子として即位し、藤原頼忠の娘を女御とされた。この方は弘徽殿の女御と呼ばれたが、ほどなくして亡くなられた。その際の帝の嘆きは限りなかった。こうして心乱れる折り、後の関白藤原道兼が持っていた扇に心地観経の文句が書き付けてあるのを目にする。これにより寛和2年(西暦986年)6月22日発心し、厳久法師と道兼の2人だけを召し、後宮の貞観殿から忍び出て、花山寺で出家した。法号を入覚という。その後畿内の霊場を巡り、那智で3年修行し、奇瑞を得て、都に戻って花山寺で真言灌頂を受けた。亡くなったのは寛弘5年(西暦1008年)2月8日。享年41。天皇の位にあったのはわずか2年であった。 花山院が出家する夜、花山寺に向かう途中、晴明の屋敷の前を通った。そのとき晴明は縁に出て涼んでいたが、帝座の星が急に位置を変えるのを観た。晴明が「天皇が位を下りた徴。これはいかなる事か」と驚きの声を上げるのを天皇は物越しに聞き、足早に通り過ぎた。晴明は急ぎ参内しこれを報告したが、天皇の姿はすでになく、行方が知れなかった。晴明が天文の理に通じているのは、かくのごとし。 (後半は『後漢書』にある光武帝と厳子陵(厳光)の逸話(「逸民列伝 - 厳光伝」)が元になっている。ただし太宗は厳子陵とはまったく別の時代の人物で、了意が光武帝と太宗を取り違えている) その昔、唐の太宗(李世民、2代皇帝)が未だ野にあったとき、厳子陵という友人がいた。太宗が帝位について後、厳子陵を呼び出し、同じ寝床で夜もすがら語り明かしたのだが、このとき寝入った厳子陵の足が太宗の腹の上にもたせかけられた。同じ頃、天文台から「客星御座を犯す(身分卑しき者が天子の位を狙っている)」と奏聞があったが、これを聞いた太宗は「大した事はない」と笑って答えた。このようなことは、その妙によく通じていないと知りがたいものである。
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