芦田慶治とは? わかりやすく解説

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蘆田慶治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/17 00:28 UTC 版)

蘆田慶治(1928年)

蘆田 慶治(あしだ けいじ、1867年11月18日慶応3年10月23日) - 1936年昭和11年)8月18日[1]は、戦前日本のキリスト教神学者

経歴

丹波国氷上郡鴨内村(現在の兵庫県丹波市氷上町鴨内)生まれ。幼時に家事の都合で京都に移り、京都府立中学校を卒業する[1]

1888年(明治21年)に大阪の南美以教会J.W.ランバスから洗礼を受け[2]、翌年関西学院神学部に入学する。卒業後の1898年(明治31年)にアメリカへ渡り、ヴァンダービルト大学イェール大学で学ぶ[3]1902年(明治35年)に帰国して関西学院神学部で教鞭をとったが、1909年(明治42年)に同志社神学校に移る[4]。間もなく同志社から再び渡米してハーバード大学で研究を重ねる。翌年同志社に復帰して新約聖書神学、のちに組織神学を講じた[3]大学令によって同志社大学が設立された1920年(大正9年)に文学部長並神学科主任となり[5]1923年(大正12年)には大塚節治らとともに学術雑誌『基督教研究』を創刊する[6]

神学的には1931-32年頃までは自由主義の立場に立脚していたが、晩年に至ってバルト主義に転じ[7]、「バルトが出るまでは、神学というものは真実ではなかった」と語った[3]1936年(昭和11年)に京都市下鴨の自宅で死去[8]

著書

家族

  • 父・芦田英太郎 ‐ 兵庫県出身
  • 甥・芦田譲治(1905-) ‐ 慶治の養子となる。理学博士。京都大学理学部教授、日本植物生理学会初代会長、愛媛大学学長。兵庫県出身、京都帝国大学理学部植物学科卒。[9][10][11][12]

脚注

  1. ^ a b 『昭和十二年 日本組合基督教会便覧』
  2. ^ 『日本キリスト教歴史大辞典』 42頁ではW.R.ランバスから。
  3. ^ a b c 『日本キリスト教歴史大辞典』 42頁
  4. ^ 蘆田がアメリカで学んだ自由主義神学と関西学院神学部の保守的な学風の対立が背景にあったとされる(『日本プロテスタント神学校史』 85頁)。
  5. ^ 「芦田慶治先生を追想す」 2頁
  6. ^ 『同志社九十年小史』 321-322頁
  7. ^ 「芦田慶治先生を追想す」 4-7頁
  8. ^ 「芦田慶治先生を追想す」 1頁
  9. ^ 芦田慶治『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  10. ^ 人事興信録 第15版 上、1948、芦田譲治の項
  11. ^ 芦田譲治コトバンク
  12. ^ 愛媛大学医学部の誘致データベース『えひめの記憶』愛媛県生涯学習センター

参考文献

外部リンク




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