自社さ体制の限界
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1996年10月20日の第41回衆議院議員総選挙の時点で自社さ体制は限界に近づいていた。左傾化した支持者から見れば転向と映った社会党の方針転換と、同年1月に決まった社会民主党への党名変更に反発して一部議員・組織が分裂していった上に、9月に社さ両党から多くの議員が離脱して民主党を結成した。 そして、社さ両党は総選挙で大きく議席を減らし、壊滅的な打撃を受けた。また、閣外協力の自由連合は全議席を失った。自民党は議席を増加させ、野党第1党の新進党から離党者を取り込んだため、衆院での過半数を回復した(1997年9月)。総選挙後に成立した第2次橋本内閣では、社さ両党は閣外協力に転じた。 翌年には沖縄特別措置法や臓器移植法などでの与党内の不一致や、さきがけの衰退があり、社民党の党首が土井たか子になって教条主義化したため、自民党への態度を徐々に硬化させた。そして、自民党は新進党内の旧公明系との連携強化を水面下で推進し始めていた。 1998年6月には、第18回参議院議員通常選挙を前に自民党は社さ両党との閣外協力を解消した。 自社さ政権発足時に自民党総裁だった河野洋平は「総裁としては野党に下った自民党を政権に復帰させることが最大の使命だった。自社さ政権でそれを実現できた。他方、その結果、社会党という存在がやがて小さくなっていった。そのことが本当に良かったのかどうか」と述懐している。 亀井は「自社さ政権は、野武士みたいな政治家が集まり、歯ごたえがあった。今思い返しても非常に倫理観があり、バランスの取れた優れた政権になっていたのは、村山さんという人格者をトップに据えたからだと思う」と回顧している。 村山改造内閣で自治大臣、国家公安委員会委員長を務めた深谷隆司は「園遊会がありましてね。最後のテントのところで一杯飲んでいる時に村山さんとか野坂浩賢元建設大臣とか、みんな一緒になったんですが、村山さんが「深谷さんを敵に回すと本当に怖いと思っていたけど味方にするとこんなに心強いことはない」と。野坂さんは「アンタはワシを何回も怒鳴るから山賊だと思った」と言われた笑い話もあります。政治家って面白いんですね。一気に仲良くなる。自社さで三党になって社会党を説得して我々の意思を貫ければそれでやれるぞという形がありましたね。だから意外に抵抗感がなかったんですよ。それから自民党政権になっていくというのは段取りとしてはよかったかなと」回想している。
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