自社さ体制の限界とは? わかりやすく解説

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自社さ体制の限界

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 02:27 UTC 版)

自社さ連立政権」の記事における「自社さ体制の限界」の解説

1996年10月20日第41回衆議院議員総選挙時点自社さ体制限界に近づいていた。左傾化した支持者から見れば転向映った社会党方針転換と、同年1月決まった社会民主党への党名変更反発して一部議員組織分裂していった上に、9月に社さ両党から多く議員離脱して民主党結成した。 そして、社さ両党は総選挙大きく議席減らし壊滅的な打撃受けたまた、閣外協力自由連合は全議席失った自民党議席増加させ、野党第1党新進党から離党者を取り込んだため、衆院での過半数回復した1997年9月)。総選挙後成立した第2次橋本内閣では、社さ両党は閣外協力転じた翌年には沖縄特別措置法臓器移植法などでの与党内の不一致や、さきがけ衰退があり、社民党党首土井たか子になって教条主義化したため、自民党への態度徐々に硬化させた。そして、自民党新進党内の公明系との連携強化水面下推進し始めていた。 1998年6月には、第18回参議院議員通常選挙前に自民党は社さ両党との閣外協力解消した自社さ政権発足時自民党総裁だった河野洋平は「総裁としては野党下った自民党政権復帰させることが最大使命だった。自社さ政権でそれを実現できた。他方その結果社会党という存在がやがて小さくなっていったそのこと本当に良かったかどうか」と述懐している。 亀井は「自社さ政権は、野武士みたいな政治家集まり歯ごたえがあった。今思い返しても非常に倫理観があり、バランス取れた優れた政権になっていたのは、村山さんという人格者トップ据えたからだと思う」と回顧している。 村山改造内閣自治大臣国家公安委員会委員長務めた深谷隆司は「園遊会がありましてね。最後テントのところで一杯飲んでいる時に村山さんとか野坂浩賢建設大臣とか、みんな一緒になったんですが、村山さんが「深谷さんを敵に回す本当に怖いと思っていたけど味方にするとこんなに心強いことはない」と。野坂さんは「アンタワシ何回も怒鳴るから山賊だと思ったと言われ笑い話あります政治家って面白いんですね。一気仲良くなる自社さで三党になって社会党説得して我々の意思貫ければそれでやれるぞという形がありましたね。だから意外に抵抗感がなかったんですよ。それから自民党政権になっていくというのは段取りとしてはよかったかなと」回想している。

※この「自社さ体制の限界」の解説は、「自社さ連立政権」の解説の一部です。
「自社さ体制の限界」を含む「自社さ連立政権」の記事については、「自社さ連立政権」の概要を参照ください。

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