自然誌の執筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 22:52 UTC 版)
「レジナルド・インズ・ポコック」の記事における「自然誌の執筆」の解説
ウィキソースには、Author:Reginald Innes Pocockの原文があります。 1910年代を迎えたイギリスで、A・A・ミルンがクリストファーを連れてアメリカから来たクマを見物するなど、珍しい動物を見に動物園に行くことが娯楽に加わる。百科事典が売れ、アマチュアの知識と専門職研究者のそれとの格差が縮まっていくと、動物や植物の話題は世間の関心を集め、一般人向けに執筆できる専門家が求められるようになった。新聞の読み物欄の常連執筆者には王立協会のフェローからケンブリッジ大学副総長のアーサー・シプレー (Arthur Shipley 1861年生–1927年没) やレイ・ランケスター (E. R. Lankester 1847年生–1929年没) などが名を連ね、あるいは自然史博物館系の研究者でランケスターの後進の W. P. Pycraft (1868年生–1942年没) は新聞に署名入りの連載をつづけ、ほぼ同年代のポロックも博物館と動物園で展示を組んできた専門性を買われてブリタニカ百科事典の執筆陣に招かれ、新聞ほかにもよく寄稿を頼まれている。たとえば園長時代の1912年に一般紙The Field に手紙を宛て、ボンベイ自然史協会の S・M・ミラード事務局長 Walter Samuel Millard から届いたレオポンの毛皮に基づく考察を披露した。 1911年の末から1912年ころにはオオカバマダラの幼虫に擬態する別の種の幼虫をめぐり、アメリカの動物学者Arthur M. Banta (1877年生–1946年没) と『ネイチャー』誌上で論を戦わせたこともあった。
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