老婆の手紙
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安永6年12月6日(1778年1月4日)、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。 一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候 オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候 アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候 ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候 ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候 オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候 ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候 十二かつ六か トウベイ ヒデヨ おかのどの ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候 イサイショガツニオイデノトキハナスベク候 ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士たちに言ったところ、殿様お屋敷(米沢城)の北門に(門番に話を通しておくから)と言うのである。お礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主(治憲)であった。 お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたのである。なお、「トウベイ」とは屋号と推定されている。 講談『水戸黄門漫遊記』のように、お忍びの殿様が庶民を手助けする話(架空)はよく語られるが、こうした実例が示されることは他にないであろう。 遠山村では安永元年(1772年)より、治憲が籍田の礼を行っていた。これは古代中国の周代に君主が行った、自ら田畑を耕すことで領土領民に農業振興を教え諭し、収穫を祖先に捧げて加護を祈る儀礼で、儒学の教えに則ったものである。4反の籍田で収穫された米は、謙信公御堂と白子神社、城内春日神社に奉納され、残りは下級武士に配給された。これは歴代藩主に受け継がれた。 この手紙の逸話については、莅戸善政の記録に、該当すると思われる記述がある。 手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵、展示されている。ほぼ片仮名で書かれ、現代人にも容易に読むことができる。当時の識字率、書法の一例としても興味深い。
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