老婆の手紙とは? わかりやすく解説

老婆の手紙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 05:39 UTC 版)

上杉治憲」の記事における「老婆の手紙」の解説

安永6年12月6日1778年1月4日)、米沢西郊遠山村米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙残っている。 一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候 オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候 アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候 ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候 ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候 オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候 ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候 十二かつ六か トウベイ ヒデヨ おかのどの ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候 イサイショガツニオイデノトキハナスベク候 ある日干した稲束取り入れ作業中に夕立降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。そこで、餅を持ってお礼伺いたい武士たちに言ったところ、殿様お屋敷米沢城)の北門に(門番に話を通しておくから)と言うのであるお礼福田餅(丸鏡餅きな粉餅両説あり)を33持って伺ってみると、通され先にいたのは藩主(治憲)であった。 お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さ褒められ褒美に銀5まで授けられた。その御恩忘れず記念とするために、家族孫たち特製足袋を贈ることにしたのである。なお、「トウベイ」とは屋号推定されている。 講談水戸黄門漫遊記』のように、お忍び殿様庶民手助けする話(架空)はよく語られるが、こうした実例示されることは他にないであろう遠山村では安永元年1772年)より、治憲が籍田の礼を行っていた。これは古代中国周代君主が行った、自ら田畑を耕すことで領土領民農業振興教え諭し収穫祖先捧げて加護を祈る儀礼で、儒学教え則ったのである。4反の籍田収穫された米は、謙信御堂白子神社城内春日神社奉納され残り下級武士配給された。これは歴代藩主受け継がれた。 この手紙の逸話については、莅戸善政記録に、該当する思われる記述がある。 手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵展示されている。ほぼ片仮名書かれ現代人にも容易に読むことができる。当時識字率書法一例としても興味深い

※この「老婆の手紙」の解説は、「上杉治憲」の解説の一部です。
「老婆の手紙」を含む「上杉治憲」の記事については、「上杉治憲」の概要を参照ください。

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