美濃斎藤家
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斎藤利治の要請によりその兄・斎藤利堯が留守居に任命された。その後、利治の子、蓮与、斎藤義興、斎藤市郎左衛門が加治田城で生まれた。また、平井信正が白華山清水寺口に住み、軍術や文化を伝える。信正の子、平井綱正は祈祷師・武士になり、信長に任官した。しかし、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で岐阜城主・織田信忠と斎藤利治が討ち死にすると、斎藤利堯は岐阜城を接収した。その後、羽柴秀吉と織田信孝が明智光秀を討ち、6月20日ごろ京都を出立して美濃へ向かうと、利堯は国衆の人質を連れ、不破郡長松で引き渡しを行った。その後、清洲会議により美濃一国が織田信孝に与えられると、その家老となり加治田城主となった。同年7月に森長可により加治田城が攻められている(加治田・兼山合戦)。利堯は同年10月まで家老を務めている。その後、信孝と秀吉の対立の中で、稲葉一鉄に勧められて信孝から離れ、天正11年(1583年)5月、賤ヶ岳の戦いにより信孝が滅びてからは、誰にも仕えなかったと伝わる(武家事紀)。その後、程なくして斎藤利堯が病死すると、後継者を決めていなかった為に統制がとれずに加治田衆は離散し、浪人や他家に任官した。 斎藤利治旗下(『堂洞軍記』『信長公記』)斎藤利堯、蓮与、斎藤義興、斎藤市郎左衛門。 佐藤信則、佐藤堅忠信則の子、佐藤昌信。 長沼三徳、長沼藤治兵衛三徳の子。 西村治郎兵衛、湯浅新六、白江権左衛門、梅村良澤、梅村左平治、小森半平、清水九郎兵衛、吉田弥三、田中七郎右衛門。 大島光義、大島光成光義の嫡子、大島光政光成の弟、大島光俊光成の弟、大島光朝光成の弟 井戸宇右衛門。 平井信正賓客、平井綱正。
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