美濃・斎藤家とは? わかりやすく解説

美濃斎藤家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 03:10 UTC 版)

加治田衆」の記事における「美濃斎藤家」の解説

斎藤利治要請によりその兄・斎藤利堯留守居任命された。その後、利治の子与、斎藤義興斎藤市郎左衛門加治田城生まれたまた、平井信正白華山清水寺口に住み、軍術や文化伝える。信正の子平井綱正祈祷師武士になり、信長任官した。しかし、天正10年1582年6月2日本能寺の変岐阜城主・織田信忠斎藤利治討ち死にすると、斎藤利堯岐阜城接収したその後羽柴秀吉織田信孝明智光秀討ち6月20日ごろ京都出立して美濃へ向かうと、利堯は国衆人質連れ不破郡長松引き渡し行ったその後清洲会議により美濃一国織田信孝与えられると、その家老となり加治田城となった同年7月森長可により加治田城攻められている(加治田・兼山合戦)。利堯は同年10月まで家老務めている。その後、信孝と秀吉対立の中で、稲葉一鉄勧められて信孝から離れ天正11年1583年5月賤ヶ岳の戦いにより信孝が滅びてからは、誰にも仕えなかったと伝わる(武家事紀)。その後程なくして斎藤利堯病死すると、後継者決めていなかった為に統制がとれずに加治田衆離散し浪人他家任官した斎藤利治旗下(『堂洞軍記』『信長公記』)斎藤利堯与、斎藤義興斎藤市郎左衛門佐藤信則佐藤堅忠信則の子佐藤昌信長沼三徳長沼藤治兵衛三徳の子西村治郎兵衛湯浅新六白江権左衛門梅村良澤梅村左平治、小森半平清水九郎兵衛吉田弥三田中七郎右衛門大島光義大島光成光義嫡子大島光政光成の弟、大島光俊光成の弟、大島光朝光成の弟 井戸宇右衛門平井信正賓客平井綱正

※この「美濃斎藤家」の解説は、「加治田衆」の解説の一部です。
「美濃斎藤家」を含む「加治田衆」の記事については、「加治田衆」の概要を参照ください。

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