結成までの道程
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満州事変以来、イスラームに限らず様々な宗教において日本への抗戦の動きが見られたが、日中戦争勃発によってその流れは加速され、宗教を核に団結して日本に立ち向かうという機運が高まった。かねてより全国規模のイスラーム組織の設立を目指していた王静斎は時子周と共に1938年1月、鄭州で中国回民抗日救国協会(以下、抗日協会)を発足させ、1月10日には設立宣言と宗旨を含んだ「中国回民救国協会宣言」を発布した。抗日協会は同年2月、漢口(現在の武漢)で行われていた国際反侵略運動大会中国分会の反侵略運動宣伝週間で、全国のムスリムを代表して侵略活動への反対を表明した。また、それに触発された地元のムスリムがモスクで反侵略大会を挙行し、全国からムスリムの代表など来賓1000人が参加した。その中には国民党中央宣伝部部長の邵力子など政府要人の姿もあった。また同年4月に漢口で、抗日戦争に参加すべく、ムスリムによる「漢口市回民戦地服務団」が組織された。これは同年8月に「中国回民青年戦地服務団」に改組され、迫りくる日本軍を前にして全国でムスリムの団結が進んだ。 1938年4月、ムスリムであり国民政府の軍事副参謀総長であった白崇禧が、漢口に滞在している折に反侵略大会の来賓として集まった全国のイスラーム指導者たちと全国規模の組織の設立について協議し、抗日協会を拡大して中国のムスリムの中心組織にすることを決定した。同年5月に漢口で成立大会を開き、白崇禧を理事長、時子周と唐柯三を副理事長とする中国回民救国協会(以下、回民救国協会)が発足した。全国組織を目指す回民救国協会が漢口で発足したものの、当時の漢口には刻一刻と日本軍が迫っていたため、陥落間近の同年8月、回民救国協会は国民政府と共に重慶へ移り、1939年7月に第1回全国会員代表大会を開催した。大会では協会の改組を行い、また、名称を中国回教救国協会(以下、回教救国協会)に改めた。このようにして国民政府唯一の公認イスラーム組織が誕生した
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