米軍政期の左右合作運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/15 07:25 UTC 版)
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、朝鮮は植民地支配から解放された。しかし、戦後の朝鮮はアメリカとソ連による分割統治下に置かれることになった(連合軍軍政期 (朝鮮史)参照)。 9月、呂運亨らが樹立を宣言した朝鮮人民共和国は、不在の金奎植を外交部長に任命したが、「朝鮮人民共和国」は占領軍に承認されないまま挫折のうちに終わった。11月、金奎植ら大韓民国臨時政府に拠った運動家たちは南朝鮮に帰還するが、「大韓民国臨時政府」の要人としての帰国は占領軍に認められず、個人としての資格での帰国であった。 南朝鮮では左右両派の対立が激化しつつあった。金奎植は「真の解放は元の一つの民族国家として統一され交流されることであり、我々自らの相互の信頼と補完にかかっている」と訴え、朝鮮の統一と独立を主張した。朝鮮を国際連合の信託統治下に置く動きが出た際にはいちはやく信託統治反対(反託)の立場を示したが、長い目で見れば不利益を齎す(もたらす)ものではないとして反託運動から離脱。このため、信託統治に反対した右派からは狙われる結果となった。 金奎植は左右合作運動に加わり、1946年10月7日に「左右合作七原則」として結実を見る。しかし、左右両派の支持を得られないばかりか、共に左右合作に携わった呂運亨が暗殺されるなど、運動は瓦解する。しかし、金奎植は民族自主連盟を結成して左右合作・統一朝鮮の独立をあくまでも目指し、金九と共に平壌で開かれた南北連席会議に出席したが、結果として朝鮮の分裂を阻止することはできなかった。 1946年11月、中国国民党軍所属の金弘壹を早期に帰国させるため、朴始昌の中国旅行許可を米軍政に求めていた。これは李青天の牽制が目的であり、金奎植は「もし金弘壹将軍より李青天将軍が先に帰国すれば、これは金弘壹将軍の侮辱になる」と主張した。ウィームズ(William Weems)は、金弘壹を現在必要としているのは韓国ではなく中国と主張し、金奎植の提案を拒否した。 朝鮮戦争時に北朝鮮へ渡り(韓国側は拉致と主張)、平安北道で病死。異論によると、1952年12月の銃殺刑論がある。死後、1989年に韓国建国勲章を贈られた。
※この「米軍政期の左右合作運動」の解説は、「金奎植」の解説の一部です。
「米軍政期の左右合作運動」を含む「金奎植」の記事については、「金奎植」の概要を参照ください。
- 米軍政期の左右合作運動のページへのリンク