米軍式と旧陸軍式を巡る論争
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陸上自衛隊に旧陸軍将校が参加したことで、その用兵思想も米軍のものをそのまま受け入れるのではなく、日本独自の教範を編纂する動きが持ち上がった。 このような動きを受けて、陸上自衛隊ではX号研研究演習を経て昭和30年(1955)には、新教範編纂事業が本格的に始まった。先述の平野や北森信男(陸大52期)等が編纂に関わり、野外令(32年版)となって結実した。これは「作戦原則」を踏襲しつつも、作戦要務令には書かれて作戦原則には書かれていなかった遭遇戦における戦機の捕捉についての記載が入るなど、旧陸軍以来の兵学思想の影響が見受けられる。 不確実性を前提として「戦機の捕捉」を重視する旧陸軍式と、統制調整による「戦力の統合発揮」を重視する米軍式の論争はその後もくすぶり続けた。 野外令(32年版)の編纂グループ班長であった花見侃(陸大57期)は「1954年の米軍野外令が伝来し、その見事さに屈し、一方では燃え上るナショナリズムの要求に屈し、反撥派好みの作戦要務令的要素が野合して、醜怪なる『独自の野外令』ができ上った。」と批判し、作戦原則がわれわれの役には立たないと考えれば、今後の我が国の戦術的発展に大きな支障があるとしている。 他方で、新教範編纂を開始した頃に陸上幕僚監部第5部長を務めていた高山信武(陸大47期)によれば、米軍顧問団や防衛庁内から旧陸軍方式の復活について警戒されていたという。 これらの論争はその後も陸自内部でくすぶりつづけ、第4代幹部学校長岸本重一(陸大46期)や第5代幹部学校長井本熊男(陸大46期)は旧陸軍方式への回帰のため種々の変革を行った。 しかし、井本が校長から退いた昭和36年8月の第6期幹部学校指揮幕僚課程入校式において、池上巌第五部長が杉田一次陸上幕僚長(陸大44期)の訓示を代読した際、来賓として呼ばれていた井本と後任である第6代幹部学校長の新宮陽太(陸大47期)の間でこの訓示の解釈から導き出される結論について激論が交わされた。 井本は戦略戦術思想を旧陸軍方式とするよう主張したのに対し、新宮は米軍式を主張したためである。 新宮は幹部学校の前身である総隊学校第二部副校長の職にあった際に米軍戦術を勉強しており、『日本式・ドイツ式戦術は1種の芸術である。従って100点を取れる名人も出るが、50~60点止まりの者も出る。その点米式戦術は誰もが70~80点の合格点を取れるサイエンス(科学)である。』と評していた。 井本と新宮の議論が終わらなかったため、新宮はその場にいた池上第五部長に対し、教育訓練を総括する第五部長としてこの場で判決を下すよう求めたが、池上は議論を避け、杉田陸幕長の意向を確認すると回答した。 最終的に杉田は米軍式に方向転換させたが、そもそも新宮を校長に据えた時点で、米軍式に舵を切る意向があったという。 だが、新宮の後任であり陸大戦術教官経験もある第7代幹部学校長の吉橋戒三(陸大50期)は、陸大の戦術教育は旧軍の戦術に指導的役割を果たし、したがって自衛隊の戦術にもかなり大きな影響を与えているとしている。
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