筋萎縮性側索硬化症の診断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 18:00 UTC 版)
「ルー・ゲーリッグ」の記事における「筋萎縮性側索硬化症の診断」の解説
連続出場が途切れた後もゲーリッグはチームに帯同するものの、状態はさらに悪化。6月中旬にはエレノア夫人も再度脳腫瘍の可能性を疑っていた。エレノア夫人は友人からミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックにいるチャールズ・メイヨー医師への紹介を受け相談をした。メイヨー自身もゲーリッグの突然の変貌に関心を持っていたようで、すぐに本人を連れて来るように伝えた。エレノアはここで自分にしかゲーリッグの病状を伝えないようにとの条件をつけた。メイヨーはこれに難色を示し、「家の長にしか伝えられない」と述べると、エレノアは「自分が家計簿を握っているので自分が唯一の家長だ」と反論した。 エレノアは直ちに当時ヤンキースが滞在していたシカゴからロチェスターへゲーリッグを連れて行き、メイヨーの診断を1939年6月13日に受ける。最初にゲーリッグを見たハベイン医師は、一目見た瞬間に歩き方や姿勢が明らかにおかしいのを見抜いていた。ゲーリッグの症状は数か月前に自身の母をむしばんでいた筋萎縮性側索硬化症の症状に酷似しており、顔の表情機能の低下や奇妙な歩き方は母親と全く同じように見受けられた。筋萎縮性側索硬化症とは、飲み込むことや話すことが困難になるなど、急激な運動機能の低下の一方、精神機能には一切の低下がなく、急速に不自由になっていく身体を曇りのない意識のもとで認識させられるという難病である。患者は発症後、半数ほどが3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する。 その後6日間ゲーリッグはメイヨー・クリニックで過ごし、ゲーリッグの36歳の誕生日となった6月19日にエレノア夫人とゲーリッグ本人に病名が告知された。ただしゲーリッグはエレノア夫人に向けた手紙で以下のように記しており、詳しい症状はエレノア夫人にのみ通達されていたという説もある。 「 悪いニュースがある。筋萎縮性側索硬化症だという事だ。治療法はない……珍しい病気らしいし、感染したのかと思うけどでもチームメイトに伝染したとの話は聞かない。……今のまま暮らせる可能性は半々らしく、10年から15年後には松葉杖の生活かもしれない。野球を続ける事は論外だ…… 」 ゲーリッグはチームに復帰するために到着したワシントンの駅でボーイスカウトの集団に出迎えられた。そこで子供たちに対し手を振り返したが、隣にいた同行者の記者に向け「彼らは俺に幸運を祈っているよ、俺は死にそうなのに」と語ったという。 6月21日にヤンキースはゲーリッグの引退を発表。しかしキャプテンとしてチームに帯同すると述べた。
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