第二黄金時代
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1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。 GHQによって制限されていた戦争映画が製作されはじめ、関川秀雄の『きけ、わだつみの声』(1950年)、今井正の『ひめゆりの塔』(1953年)、木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)、市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、『戦艦大和』(1953年)や『太平洋の鷲』(1953年)といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で嵐寛寿郎が明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(1957年)といった作品までもが登場した。神聖にして侵すべからずとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。 映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『七人の侍』もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞するなど、極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆した。 こうした映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引した。各社の動向は以下の通り。
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