笠間城の築城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:40 UTC 版)
「佐志能神社 (笠間市)」の記事における「笠間城の築城」の解説
鎌倉時代の初期、佐白山には「百字の坊舎」があり、徳蔵村(現・東茨城郡城里町徳蔵)の布引山の三百坊と敵対し、合戦に及んでいた。山道入口には坊舎の争いに使われたという「大黒石」が残っている。元久2年(1205年)、佐白勢は宇都宮頼綱に援軍を請い、宇都宮時朝の発向を得て布引勢を討伐したが、結局双方が破却された。建保3年(1216年)、笠間を領有した宇都宮時朝は、祖国から宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)を勧請した。この宇都宮明神の勧請は、現在の佐白山西麓に鎮座する三所神社の由緒に属している(後述)。さらに承久元年(1219年)から嘉禎元年(1235年)にかけて笠間城を築城し、笠間氏を名乗った。 この笠間時朝による笠間領有と笠間城築城をきっかけに、佐白山から佐志能神社と城山稲荷神社が下ろされた。 佐志能神社は、山頂の阿武山に鎮座していたが、下市毛村に下ろされた。笠間城記に「阿武山(笠間城殿主峯の山なり)に其社ありしを、宇都宮氏笠間を領せし時、今地に遷せり」とあり、茨城県神社写真帳に「宇都宮長門守時朝此處(佐志能山)に城塁を構く、依て祠を同郡下市毛黒袴へ遷し以て鎮守となす」とある。「黒袴」は神像名の「黒袴権現」の意である。この下市毛村の旧址は、笠間市笠間(稲荷町)の「近森稲荷神社」であり、近世の地名は「下市毛村字田宿」だったという。なお、現在の笠間市に田宿や黒袴といった地名は残っていない。 城山稲荷神社(城山出世稲荷神社)は、佐白山に鎮座していたが、元久年間(1205-1206年)に山麓に下ろされた(境内由緒書)。元和7年(1621年)、新町(町名)形成により横小路の北に遷座し、正保年中(1645-1648年)から元禄年中(1688-1703年)にかけては井上正利が笠間城内に奉斎して守護神としたが、井上正任の代に転封となったため現地の笠間稲荷神社の北東に再遷座した。 このような整理が行われたにも関わらず、建長年間(1249-1255年)、佐白山には依然として「阿武宮、𠮭路破瘕魔明神、八幡宮、稲荷社、弁天社、小聖明神」の6祠があったという(笠間便覧)。
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