立法院院長としてとは? わかりやすく解説

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立法院院長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:17 UTC 版)

孫科」の記事における「立法院院長として」の解説

1933年民国22年1月孫科立法院院長任命され以後15年にわたり就任した孫科就任直後から憲法起草委員会組織し自ら委員長となり、中華民国憲法策定作業進めた当初議院内閣制型の統治機構考案していた孫科は、行政院実質的な権力有し総統民選ながらも実質的な政治権力有しない内容構想した。しかし蔣介石この内容に反対し、総統実質的な権力有し、しかも行政院会議により間接選挙されるものに改めさせた。1936年民国25年5月5日憲法公布されたが(五五憲法)、孫科蔣介石介入に不満を有し、また民主党派中国共産党からも批判噴出した孫科政治的立場は、対外的には「積極抗日、中ソ友好」であり、対内的には民主党派との連携強め方向性持っていた。外交面での孫科活躍大きく1937年民国26年8月21日には、中ソ相互不可侵条約締結しソ連からの援助借款取得締結実現している。また立法院院長として、上記憲法起草以外にも各種法制整備担当した1948年民国37年)、孫科蔣介石説得受けて副総統選挙出馬決選投票李宗仁敗れている。同年11月、孫は行政院院長就任したが、まもなく蔣介石下野する。孫も代理総統就任したとの関係に亀裂があったため、1949年民国38年3月8日下野している。 下野した孫科フランスアメリカに移住した。1965年民国54年)の孫文生誕100周年記念大会出席するために台湾訪れた。この時、孫科蔣介石招聘により総統府資政として台湾留まる。さらに翌年考試院院長就任した1973年民国62年9月13日孫科心臓病により台北死去した。満81歳没。

※この「立法院院長として」の解説は、「孫科」の解説の一部です。
「立法院院長として」を含む「孫科」の記事については、「孫科」の概要を参照ください。

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