立法院院長として
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1933年(民国22年)1月、孫科は立法院院長に任命され、以後15年にわたり就任した。孫科は就任直後から憲法起草委員会を組織し自ら委員長となり、中華民国憲法の策定作業を進めた。当初議院内閣制型の統治機構を考案していた孫科は、行政院が実質的な権力を有し総統は民選ながらも実質的な政治権力を有しない内容を構想した。しかし蔣介石はこの内容に反対し、総統が実質的な権力を有し、しかも行政院会議により間接選挙されるものに改めさせた。1936年(民国25年)5月5日に憲法は公布されたが(五五憲法)、孫科は蔣介石の介入に不満を有し、また民主党派や中国共産党からも批判が噴出した。 孫科の政治的立場は、対外的には「積極抗日、中ソ友好」であり、対内的には民主党派との連携を強める方向性を持っていた。外交面での孫科の活躍も大きく、1937年(民国26年)8月21日には、中ソ相互不可侵条約を締結し、ソ連からの援助・借款取得の締結を実現している。また立法院院長として、上記憲法起草以外にも各種法制整備を担当した。 1948年(民国37年)、孫科は蔣介石の説得を受けて副総統選挙に出馬、決選投票で李宗仁に敗れている。同年11月、孫は行政院院長に就任したが、まもなく蔣介石が下野する。孫も代理総統に就任した李との関係に亀裂があったため、1949年(民国38年)3月8日に下野している。 下野した孫科はフランス、アメリカに移住した。1965年(民国54年)の孫文生誕100周年記念大会に出席するために台湾を訪れた。この時、孫科は蔣介石の招聘により総統府資政として台湾に留まる。さらに翌年に考試院院長に就任した。 1973年(民国62年)9月13日、孫科は心臓病により台北で死去した。満81歳没。
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