稲毛源之右ェ門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:19 UTC 版)
「来迎寺 (新発田市)」の記事における「稲毛源之右ェ門」の解説
戊辰戦争時、本来勤皇である新発田藩は、近隣の各藩が譜代または親藩のため、最初から勤皇であると主張できず、非常に苦慮し、やむなく奥羽越列藩同盟に加盟した。長岡城が落城し、これを奪還するため、列藩同盟では越後各藩に加勢の差出しを命じた。新発田藩は断るわけにも行かず、やむなく三ヶ小隊に大砲隊を送り出した。しかしながら藩士達は、こうした進軍を喜ばず、3日をかけて八里しか進まなかった。新津を過ぎた中村付近まで来ると、かねてから藩の培った勤皇思想が浸透していたことから、新津の大庄屋桂慎吾が指導した数千の人々が集まり、隊の行く道を塞いで引き返らせた。列藩同盟は最早容赦出来ないとして、藩主溝口直正公を作戦の打ち合わせという表面上の理由で、実際は人質として上関に出頭を命じた。そして藩主受け取りのため、村松藩藩士稲毛源之右ェ門が新発田に派遣されて来た。新発田の老臣たちは協議の結果、ここで拒絶して戦になるより、藩主が上関に行ったほうがよいということになり、慶応4年6月7日、家老の溝口内匠と藩士数名が直正公を警護し上関に出発した。諏訪神社の三ッ屋口まで来ると、城下三組をはじめ、岡方方面の人々が手に竹槍や、槍、刀で武装し、直正公の駕籠を取り囲み、行く手を阻んだ。次々と人数が増し、夜になると数千人の群集に膨れ上がった。そして道々の橋を切り落とし、進めなくしたため、遂に直正公一行は清水谷御殿に入った。これらの騒動を指導したのは、島潟の大庄屋小川五兵衛、五十公野組大庄屋井上千之亟、長戸呂村前田又之亟、浦木村大庄屋曾我静次などで、北辰隊の隊長、葛塚の遠藤七郎もその隊員を引き連れ参加していた。やむなく翌8日、家老の溝口内匠を上関に急行させ、領民の騒動の有様を報告し、その諒解を求め、直正公は9日に帰城した。このために藩主直正公を受け取りに来ていた稲毛源之右ェ門は、情勢の激変にその任務を果たせず、死をもって責任を果たそうと、来迎寺の便所において切腹をした。その際、はらわたを掴みだし、振り回したのであたり一面天井や、腰板、戸の表面まで鮮血に染まった。現在も寺の便所にはその血痕が黒々としみついて残っている。稲毛源之右ェ門の戒名は源林院大道了忠居士である。
※この「稲毛源之右ェ門」の解説は、「来迎寺 (新発田市)」の解説の一部です。
「稲毛源之右ェ門」を含む「来迎寺 (新発田市)」の記事については、「来迎寺 (新発田市)」の概要を参照ください。
- 稲毛源之右ェ門のページへのリンク