税と印紙法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:29 UTC 版)
「トマス・ハッチンソン」の記事における「税と印紙法」の解説
1763年、イギリスの議会で砂糖法が議論されたとき、その法案に植民地が反対していることを表明するために、ハッチンソンをイングランドに派遣することが提案された。しかし、バーナード総督は現職副総督を派遣することに異議を唱え、砂糖法は法制化された。その後に植民地からの大きな抗議が起こり、ハッチンソンはオーティス親子(この頃に「代表なくして課税なし」というフレーズを使い始めていた)のような反対者の中でも指導者達と、この法がマサチューセッツの経済に害を与えることで合意していた。しかし、その後の議論の中でハッチンソンとそれ以外の者達の間に、イギリスの議会の優越性とそこに植民地から正式な代表を送る可能性について、見解の不一致を見るようになり、ハッチンソンとオーティス親子の間に大きくなった個人的な敵意によって悪化した。ジェイムズ・オーティス・ジュニアやオクセンブリッジ・サッチャーが率いた反議会党派が、細かい議論を全て制してハッチンソンとその派の独占権に対抗した。ハッチンソンは当初これら打ち続く政治的攻撃を無視していた。その敵対者は誤った方向に導かれているか判断を誤らされていると考えていた。伝記作者のアンドリュー・ウォームズリーは、この段階でのハッチンソンがイギリスの支配に対するまとまりある反対意見を築いていくときにこれら攻撃の影響力を過小評価しており、自分の評判に及ぼしていた影響を認めていなったと主張している。 1765年印紙法が成立するまでの議論の中で、ハッチンソンもバーナードもロンドンにそれを進めないよう静かに警告していた。特にハッチンソンは「アメリカ人に課税するのは良いはずがない。..あなた方が得られるよりも多くのものを失うことになる」と記していた。1764年10月、この問題に関してロンドンに送る請願書を起草するために植民地議会が招集されたとき、ハッチンソンは急進的な言辞を入れることに反対し、より穏健な反対声明を作ることになった。しかし、マサチューセッツが準備した請願書は他の植民地で作られたものと比較して弱いと見られ、ハッチンソンは密かに印紙法を推進しようとしていると非難された。「裏切り」であり、「国を売ろうとしている」とも非難された。この法が成立したという報せは、議会優越性に対する最も強い反対者であるサミュエル・アダムズに、植民地政界のなかでも大きな役割を持たせることになった。ハッチンソンは個人的にその法の撤廃を支持したが、法に対する反対を公にしたがらなかったことで、その敵対者に更なる火種を与えただけになった。
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