移民 - 貧しい家庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:12 UTC 版)
「ジョゼフ・ウレザンスキ」の記事における「移民 - 貧しい家庭」の解説
ジョゼフ・ウレザンスキは1917年2月12日、フランス西部のアンジェ(ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ=エ=ロワール県)に生まれた。ウレザンスキの父はポーランド人で当時ドイツ帝国領であったポズナンに生まれ、マドリッド滞在中に小学校教員であったスペイン人女性と出会って結婚。第一子ルイ誕生後、フランスに移住した。第一次大戦が勃発し、ドイツ国籍であった(ドイツのパスポートを有していた)一家は対独協力者扱いされ、強制収容所として使われていた古い神学校の建物に隠れ住んでいた。第二子(女児)は肺炎を患って死亡。第三子ジョゼフが生まれた。戦後、アンジェのはずれの貧民街にあった旧製鉄所に移り住み、第四子アントワネット、第五子マルタンが生まれた。父は機械工の資格があったが、敵国ドイツからの移民として扱われ、仕事を得ることができなかった。一度は時計修理の仕事を始めたが、ある米国人に頼まれた金時計を盗んだと疑われ、ついには一人、故郷ポーランドに戻り、やがて消息を絶った。 ウレザンスキの母は、家政婦の掛け持ちをして生計を立てたが、4人の子どもを養うには足りなかった。ウレザンスキは5歳のときから家で飼っていた家畜の放牧を引き受け、週40スーと朝食を得るために教会の聖歌隊で歌っていた。夜や休日は一家で引き受けたタバコの巻紙を作る仕事をしたり、ボタ山に石炭を拾いに行ったりした。学校では「キキ」と呼ばれ、からかわれた。「ウレザンスキ」というポーランド系の名前が発音しにくかったからである。だが、母から「威厳」をもって生きることを教えられたウレザンスキは、からかわれれば殴り返した。仲間からは一目置かれるようになったが、あるとき、弱い者いじめをしていた少年を殴ったために退学になった。このとき、「貧困は暴力を生む」と悟ったという。
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