禅堂へ入らむ蟹の高歩き
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季 節 | 夏 |
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評 言 | 飴山實は1926年(昭和元年)石川県小松市生まれ、京都大学農学部卒業。芝不器男に共感し惹かれつつも俳句に対する態度は早いうちから確立しており、「新興俳句」を事実上否定し、俳句の進化を否定した。 ところで掲句の禅寺といえば、金沢の四高出の飴山實の身近にあった永平寺が思い浮かぶ。NHKの「行く年来る年」の除夜の鐘は様々な雪深い寺院と僧侶の唱える経文とで厳しい冬に向かう精神の強さ、高潔なものを感じさせる映像を映し出す。 禅宗には壁を背にして坐禅する臨済宗と壁に向かい坐禅する曹洞宗とがあるが、曹洞宗開祖の道元は只管打座(しかんたざ)すなわち、ひたすらに坐ることを重視した。 坐禅による腹式呼吸では線香一本焚く間(約三十分)続けることはジョギング三十分に匹敵するといわれるが、「セロトニン神経(「元気」の状態を演出する神経)の活性化には坐禅の腹式呼吸などによるリズム性運動が効果的(東邦大学医学部の有田秀穂教授)」であるとされている。 無意識の自律的呼吸は吸い込むことが主であるが、吐く息の重要性は気功等にも見られるように、坐禅には腹式呼吸により呼吸がゆっくりとなることが観察されている。 さてこの句ではひたすら坐ることでありのままの自分を体感する場の中に高く足を上げた蟹が入って行くのである。 禅僧には重要な修行である托鉢があるが、仏僧の托鉢は一列に整然として並び門を出て食物を乞うて歩くのだが、蟹はなんのこだわりも無く気の向くまま歩き回る。 無の境地を生み出す堂の中へずかずか入り込む蟹は、現代を否定しひたすら禅に救いを求める蟹なのであろうか。 「なめくじも夕映えてをり葱の先」の句もあるが、それだけでない虚無の思いが見える。あえて言えば蟹も蛞蝓も飴山實なのである。 |
評 者 | |
備 考 |
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