社会経済史研究における史料としての利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/30 18:01 UTC 版)
「崔溥」の記事における「社会経済史研究における史料としての利用」の解説
崔溥が書き残した情報は、歴史研究者にとって15世紀の中国がどのような文化と文明であったのかを知る絶好の手がかりとなっている。例えば、「村の子どもや船頭や船乗りですら」字が読めたという記述は、識字率の広がりに関する重要な証拠である。 さらに崔溥は、彼らが山、河、道観、祠廟、関羽廟などの旧跡の他、新しい皇帝が即位したことの重要性といった話題についてまでも漢字を用いて記述できたことを強調している。 崔溥はまた、豊富な食料の記録を苦労して逐一残してくれたため、当時の生活文化を推測することが出来る。例えば、地方長官のもてなしのときには、一回に「豚一皿、鵞鳥二羽、鶏四羽、魚二尾、葡萄酒一大杯、米一皿、胡桃一皿、菜一皿、筍一皿、麺一皿、棗一皿、豆腐一皿」という具合である。 なお、葡萄酒を振る舞われたときには、父の死に際して三年間の喪に服していうることを理由に固辞したことを記録に強調して記している。 さらに、崔溥は酒に加えて、「肉、大蒜、蒜、甘味」を摂ることを節制し始めた。 このように一朝鮮人が儒教の原則に固執することは、明朝のもてなす側の人々を大いによろこばせた。 崔溥はまた、村や町の地理に関する観察も行っている。 歴史研究者は彼の正確な記述のおかげで、いにしえの失われた土地や建造物についてのピンポイントの情報を得ることができる。例えば、蘇州については次のように書いている。 蘇州はかつて Wukuai と呼ばれていた。東海の果てにあって、三江五湖を有し千里の沃野を備える。…城の中にある Le 橋は、呉と常州を隔てる。商店街は星のように散らばっている。たくさんの川や湖がこの地方を走り、気を清める。 — Marme (2005, p. 144)
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