礼拝所からヘルツ・イェズ教会区へ
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「エアランゲン」の記事における「礼拝所からヘルツ・イェズ教会区へ」の解説
教会の建設許可は、重い負担を伴った。塔も鐘もオルガンもない簡素な礼拝堂が設けられた。礼拝は扉を閉じた状態でのみ行うことが許され、洗礼、結婚、葬儀は従来通り福音主義聖職者が執り行った。礼拝所は市の外側遠く、現在のカトリック教会広場に設けられ、1790年のペーターおよびパウロの日に開所した。 フランス革命を逃れたフランス人によって大きく成長したカトリック組織は、しかし、絶えず変化する政治情勢のために経済的窮地に追い詰められた。エアランゲンのカトリック組織の上位組織にあたるバンベルク大司教区は1803年からバイエルン選帝侯領に属した。エアランゲンは1806年まではプロイセン、その後4年間フランスに属した。エアランゲンの聖職者は、外国に雇われている人物として、バンベルクから給料を受け取ることができなかった。エアランゲンがバイエルンに編入されてやっとこの問題は解消された。 1813年にそれまでのエアランゲン支教会区は教会区に昇格した。この頃、宗派間の関係は完全に緩和した状態にあった。1843年にカトリックのレプハーン・ツー・グラーベ司祭が葬られた際には、福音主義および改革主義の聖職者全員が葬列についた。後継者のディンケル司祭(後のアウクスブルク司教(ドイツ語版、英語版))は、1850年に教会堂(現在の翼廊)を現在の姿にし、西のファサード前に塔を建立した。19世紀後半にカトリック信者は約6,000人にまで拡大した。これは新しい兵舎によるものでもあった。このため別の新しい建物が必要となり、古い建物に対して直交する形で建設された。これにより、教会堂は1895年に現在の姿となった。この改築に伴って、守護聖人が「悲しみの聖母」から「聖心(ヘルツ・イェズ)」に変更された。ヘルツ=イェズ教会の内部はこれ以後何度も改装された。洗礼盤(ドイツ語版、英語版)と善き羊飼い(ドイツ語版、英語版)の木像だけが、かつての礼拝所を現在に伝えている。
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