礼拝観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:26 UTC 版)
キリスト教はユダヤ教とは異なった礼拝観を持っていた。イエスは旧約的な神殿礼拝を拒否してはおらず、祝日には自ら神殿に赴いたが、一方でより内面を重視した新しい礼拝観を示した。「ヨハネによる福音書」のなかでイエスは .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。 と言っている。使徒時代のキリスト教徒であるステファノの次の言動には、このイエスの内面的な礼拝観がよく表れている。 神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、/ わたしの手が造ったものではないか。」』 彼はエルサレムの神殿に直結したユダヤ教の祭祀を否定し、イエスの述べた新しい礼拝を強く主張したために、殉教にいたった。 だからといって、初期のキリスト教会が外形的な表現を重視しなかったわけではない。集会堂としての教会は典礼の中心となったし、洗礼はキリスト教共同体としての「教会」への加入を視覚的に表現した。しかし一方で2世紀後半から3世紀にかけてのキリスト教著述家ミヌキウス・フェリクスは「私たちには、神殿も祭壇もない」ということを異教徒に対して誇った。教会は集会する場所であり、祭儀は建物としての教会堂に帰するのではなく、信徒共同体としての教会それ自体に帰するのである。初期キリスト教ではイエスこそが「祭司」であり「大祭司」で、そのキリストに繋がれているという意味で、教会が「祭司」なのであった。
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