磐井は九州倭国の天皇説
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「九州王朝説」の記事における「磐井は九州倭国の天皇説」の解説
『日本書紀』に逸書『百済本記』から〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。「磐井の乱」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していたということにする。 福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは、九州に律令があったことを示すもので九州に王朝があった証拠であることとする。 古代わが国では「曲水の宴」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。畿内地方で「曲水の宴」が開催されはたのは8世紀以降であるが、福岡県久留米市には、8世紀以前の「曲水の宴」のものだと仮定することができる遺構がある。 福岡県久留米市の高良山にある高良大社は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせるということにする。 高良大社が三種の神器、「干珠・満珠」の宝珠や七支刀を所蔵している。高良大社の神職は丹波・物部・安曇部・草壁・百済の五姓である。 中世末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号を持った者がいる。ただしこれらの系図は古代のものとしては極めて稚拙であり偽作である可能性が高い。 高良大社の祭神高良玉垂命は、武内宿禰と言われている。武内宿禰の子供達の名前の地名がこの一帯に散らばっている。羽田(波多)、肥前基肄郡基肄(紀)、肥前佐嘉郡巨勢(巨勢)、肥前三根郡葛木・椎田町葛城村(葛城)、曾我(蘇我)、平群(平群)。ただしこれらの地名は畿内により鮮明に残っている。 「筑紫君葛子(ちくしのきみ かつし)は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったということは、葛子が朝廷の人物であったということである。ただし、葛子がヤマト王権に仕えていた人間と仮定しても矛盾しない。
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