磐井の乱は本当に「反乱」だったのか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:20 UTC 版)
「磐井の乱」の記事における「磐井の乱は本当に「反乱」だったのか?」の解説
磐井の乱が本当に「反乱」だったのかという点については、『日本書紀』の史観によってみるならば、確かに反乱といって良い。 磐井が筑紫国造という地位にあるからである。ヤマト政権下で地方統治を任されたのが国造であり、その地位にある磐井が、新羅に通じ、ヤマト政権に反抗したのであるから、まぎれのない反乱といえる。 だが、国造制の成立をいつと考えるかで、磐井の乱の性格は全く違ったものになってくる。例えば、五世紀後半ごろから施行されていったとする説に従うならば、六世紀前半の段階で磐井が筑紫国造であったと考えることに問題はない。 しかし、最近言われ出した七世紀前半ごろに整備された制度とするならば、磐井は六世紀前半には国造ではなく、九州北部を拠点にしていた地方豪族ということになる。つまり、九州の北部を中心に勢力を張り、玄界灘の海上権を支配していた豪族である。ヤマト政権としてみれば、朝鮮半島へのルートとして、九州北部は重要であり、支配下に置くことが出来ない場合には、その地域の豪族たちとの友好関係は不可欠のものであった。 このような友好関係で結ばれていたのが磐井とヤマト政権の実態だとすると、磐井がヤマト政権と対抗するため新羅と手を結んだとしても、それは畿内と九州の氏族がそれぞれの国家形成を目指す戦争であって、反乱とはいえなくなってくるのである。
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