石油発見の広がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 19:34 UTC 版)
「テキサス州の石油ブーム」の記事における「石油発見の広がり」の解説
メキシコ湾岸の平原全体で岩塩ドームの探査が行われ、1902年にはサワーレイク、1903年にはバットソン、1905年にはハンブル、1908年にはグースクリーク(現在のベイタウン)で大きな油田が開発された。テキサス州南東部の大半にパイプラインと製油所が建設され、特にヒューストンとガルヴェストン湾周辺ではかなりの工業化が進んだ。州内初のオフショア油田は1917年に開業したグースクリーク油田ブラックダック湾だったが、実際にオフショアの探査が始まったのは1930年代になってからだった。 当初の石油生産は多くの小企業によって行われていた。初期の探査と生産に関わる熱狂状態によって不安定な供給に繋がり、過剰生産に陥ることも多かった。初期の大きな油田発見によって有用性が増し、価格低下に繋がったが、生産が縮小すると、探査が限られたものになり、石油価格も急上昇した。このような状況により、探査の網はオクラホマ州、ルイジアナ州、アーカンソー州など隣接州に広がり、石油生産での支配力をテキサス州と競うようになった。1905年、オクラホマ州タルサ市近くグレンプールで石油に突き当たり、タルサ市は国内の石油生産で指導的地位を獲得し、それが1930年代まで続いた。テキサス州は間もなくオクラホマ州とカリフォルニア州の後塵を拝するようになったが、それでも主要な生産州だった。 1910年代後半から1920年代、石油探査と生産は拡張と安定を続けた。北テキサス、中央テキサス、回廊地帯および西テキサスのパーミアン盆地で石油生産が始められた。1917年にダラス・フォートワースの西、レンジャーで掘り当てたことに始まった北テキサスの石油は特に重要なものとなり、地域にかなりの工業化をもたらした。テキサス州は間もなく国内の石油生産量をリードするようになった。1940年までにテキサス州の生産高は、当時国内第2位であるカリフォルニア州の2倍になった。 1930年、独学の試掘者コロンバス・マリオン・ジョイナーが東テキサス油田を発見し、それまでに無い大油田の発見となった。それまで東テキサスはあまり探査が行われていなかったので、「ワィルドキャッター」と呼ばれた多くの独立系試掘者が土地を購入し、新しい油田を探査することができた。この新しい油田で世界恐慌時代のダラス経済を復活させたが、新しい供給源の開発で石油価格が暴落し、西テキサスの利益を大きく減少させた。東部油田の無規制の生産によって、石油生産水準を規制し価格を安定化させようとしていた州内の石油産業を不安定化させた。東テキサスの過剰生産量はかなり大きなものだったので、当時の州知事ロス・スターリングは油井の多くを閉鎖しようとした。強制閉鎖の過程で、州軍を使うことも命じた。独立系とメジャーの生産者双方を保護することを意図したこれら生産規制は、当初ほとんどうまく行かず、石油の密輸も広く行われた。1930年代後半、連邦政府が介入して生産を維持可能な水準に戻し、価格変動を抑えることに成功した。価格安定化で得られた収益によって、人口の少ない西テキサスや回廊地帯で、さらに石油探査や掘削が進んだ。
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