石油獲得競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
第1次大戦後も石油への関心は高まり続け、豊富な埋蔵量が予想された西アジアでは獲得をめぐって各国が争った。1928年の赤線協定では、西アジアにおける石油貿易の枠組みが決定された。アメリカはテキサスなど国内の採掘を盛んにする一方で、スムート・ホーリー法の対象にも石油は含まれずに輸入が続けられた。サウジアラビアではアメリカ主導の採掘が始まり、ペルシャ湾に面するクウェートは、大恐慌が招いたマッカ巡礼の激減と、日本の養殖真珠による天然真珠の輸出減で財政難に陥り、イギリス主導で石油利権協定が調印された。 日本は石油の貿易依存が高く、アメリカから国内消費の80パーセント、オランダ東インド領から10パーセントを輸入していた。日本とアメリカは中国の門戸開放をめぐって対立がすすみ、満州事変や日中戦争が起きると、日本の軍事行動にアメリカの石油が使われることに反対が高まる。アメリカの石油業界や世論は日本への禁輸を求めて、日本が東南アジアへの軍事行動を開始すると、1941年にアメリカは石油禁輸措置をとり、日米の開戦の一因にもなった。ドイツは石油をルーマニアに依存しており、占領地の拡大で石油の消費が増えるにつれ、特に1941年から逼迫した。
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