石川の識字能力をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 23:51 UTC 版)
「狭山事件」の記事における「石川の識字能力をめぐって」の解説
文字を覚えた時期について、当人は以下のように発言している。 千葉刑務所で文字を覚えた。8年に及ぶ勉強で、文字を獲得した。なお、文字を学んだ期間について、別の場では「12年間」とも発言している。(石川が千葉刑務所に収監されたのは1977年9月8日) 「浦和にいたときの私は字の読み書きは全く出来ませんでした」(石川が浦和拘置所に収容されていたのは1963年7月9日から1964年4月30日まで) 「昭和42年(1967年)ごろから、私は文字の読み書きを拘置所(東京拘置所)の中で、独力ではじめたのです。控訴審になってから、外部の人に無罪を訴えるためには、もはや自分自身の手に頼るしかないと思い、猛勉強をしたのです。そのころには、外部から手紙をもらうようになりました。当初は読めないから担当の看守に読んでもらったのですが、もちろん返事は書けません」(石川が東京拘置所に収容されていたのは1964年4月30日から1977年9月8日まで。控訴審が始まったのは1964年9月10日) 逮捕された当時ほとんど漢字を書けなかったが、看守からこっそり漢字を教わった。最初に覚えた漢字は自分の名前と「私」「無実」だった。(石川が無実を主張していたのは1963年5月23日の逮捕から1963年6月20日あるいは1963年6月23日まで。ただしこの間、石川には接見禁止がついており手紙のやり取りも禁じられていた。1963年6月20日あるいは1963年6月23日から犯行の自供に転じ、一審の死刑判決を挟み、1964年9月10日まで自供を維持。1964年9月10日から再び無実の主張に転じ、これを維持したまま今日に至る) 石川は、逮捕当時は文盲あるいはそれに近い状態だったと支援者から言われている。たとえば本田豊は「石川氏は字というものをまったく書けなかったらしい」と述べている。ただし裁判では文盲と認定されておらず、逮捕直後には既に克明な日記を書きこなし[要出典]、その日記は後に『石川一雄獄中日記』として刊行された。その後、石川は東京拘置所の看守の助けで必死で文字を学んだと称し、精力的に支援者への手紙や、短歌をしたためるようになった。1975年、第1回部落解放文学賞「短歌」部門で特別賞を受賞している。 このように当人の発言はさまざまに推移しており、石川がいつ文字を覚えたのかは定かでない。逮捕前、歌好きの石川の手帳に漢字入りの流行歌の歌詞が書きつけられていたとの情報もある。なお自らの氏名については、少なくとも1963年9月6日付の関源三宛の手紙で既に正しく漢字で書きこなしていることが確認できる。
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