県議選で2度落選
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1991年(平成3年)4月の愛知県議会議員選挙に知多郡第一選挙区(阿久比町・東浦町)から無所属で立候補するも、自民党現職の日高昇に敗れ落選。 1992年(平成4年)2月2日、愛知県議会尾西市選挙区の浅野春義が病死。浅野が海部俊樹の系列に属していたことから、補選の後継選びは海部の後援会「尾西カイフ会連合会」が軸となって進められた。同連合会は2月20日頃から市内の50代の織物会社社長に出馬を要請。しかし3月4日までに会社社長が断ったため、連合会は3月8日、東浦町に住んでいた長坂の擁立を決めた。尾西市は母親の実家があるところでもあった。この決定に系列市議から「転入者を候補にするのはおかしい」との声が続き、一時は40代の市議が出馬の構えを見せた。そのため衆議院旧愛知3区全体の海部の後援会幹部は反対者に上京を勧め、3月9日に市議らは海部と面談。ようやく矛を収めた。長坂は3月10日に住所を同市三条郷東藤に移し、告示日前日の3月12日、自民党からも公認を受けた。同日、織物販売会社社長の丹羽昭三が「無投票は好ましくない」と急遽出馬の意向を表明した。3月13日の出陣式で海部系の森秀夫市長は「よそ者に対する閉鎖的な風土があるとすれば除去したい」と述べ、長坂支援をアピールした。 有権者の半数が "海部党" といわれ、保守系市議18人のうち15人は海部系という尾西市において当選は盤石かと思われたが、3月20日に海部が応援演説を行った会場では1100用意した椅子のうち、300は空席というあり得ない光景が見られた。補選は3月22日に実施され、長坂は594票の小差で敗れ落選した(丹羽7,782票、長坂7,188票)。投票率は36.04%で、過去最低を記録した1983年4月の県議選・尾西市選挙区の40.85%を4.81ポイント下回った。
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