県議時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 06:25 UTC 版)
旧制愛媛県立松山商業学校(現在の愛媛県立松山商業高等学校)を経て、官立高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)に進み、1933年(昭和8年)3月に卒業する。 1947年(昭和22年)4月、愛媛県議会議員に当選。戦後の混乱期に、農業団体での活動をバックボーンに、地方政治の世界に足を踏み入れた。そして、行動力を遺憾なく発揮し、実力者として頭角を現わし、「影の知事」とすら呼ばれる存在感を発揮した。県議会議員6期を通じ、自由民主党愛媛県連幹事長(1956年就任)、愛媛県議会議長(1957年就任)を務めた。 この時代の、保守王国・愛媛の政治体制は、県行政=県知事を頂点とし、周辺に自民党県議団が控え、各地域選出の県会議員を通じ市町村を掌握するという、縦の関係であった。さらに、地元国会議員も県政に関しては積極的な関与はしない、独自のルールができあがっていく。これが、白石が構築した保守王国の体制であった。 特に、銅山川分水、道前道後農業水利事業、勤務評定紛争などの解決などに精力的に取り組んだ。 1963年(昭和38年)の愛媛県知事選挙における選挙違反事件で久松定武陣営の総括責任者として逮捕された。1審・2審で有罪となり、1968年(昭和43年)上告を取り下げて有罪が確定するが、明治百年記念恩赦により公民権を回復した。
※この「県議時代まで」の解説は、「白石春樹」の解説の一部です。
「県議時代まで」を含む「白石春樹」の記事については、「白石春樹」の概要を参照ください。
- 県議時代までのページへのリンク