白村江の敗戦と軍事力の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:15 UTC 版)
「日本の軍事史」の記事における「白村江の敗戦と軍事力の整備」の解説
飛鳥時代になると、倭王権は冠位十二階の制定などに見られるように国家としての体制を整備していった。 7世紀半ば、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、大化の改新によって天皇中心の中央集権を進めた。この頃朝鮮半島では、同盟関係にあった百済が滅亡する。天智天皇は百済復興を目的として、47,000人の大軍を朝鮮半島に派遣した。しかし唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し(663年)、朝鮮半島における影響力を失っただけではなく、唐・新羅の日本列島侵攻も予想された。 これに対抗するため、天智天皇は百済の技術も使い防衛力を強化した。対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、北九州の外交と防衛の拠点である筑紫大宰(大宰府)には水城を設置した。同様に、吉備、伊予、周防などへも大宰帥が設置され、多くの古代山城が築かれた。 天智天皇の死後、皇位継承を巡って、671年に大友皇子と大海人皇子(天武天皇)の間に壬申の乱が発生した。1ヶ月に亘って近畿圏各地で戦闘が繰り広げられ、古代最大の戦争に発展した。大海人皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員し、大友皇子側は東国と吉備、筑紫の大宰帥へ動員を命じた。勝利した天武天皇は最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定を命じるなど、律令制の確立を進めた。
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