登録の歴史とは? わかりやすく解説

登録の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 02:18 UTC 版)

負の世界遺産」の記事における「登録の歴史」の解説

世界遺産条約に基づき世界遺産登録されるようになったのは、第2回世界遺産委員会1978年)からである。その年に登録され最初の世界遺産12件の中に、「負の世界遺産とされるゴレ島」が含まれていた。 翌年には、「アウシュヴィッツ強制収容所」と「ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群」が登録された。なお、前者登録については、類似物件の登録を今後制限する旨の付帯決議盛り込まれた。 1980年第4回世界遺産委員会基準(6)のみで登録することの是非議題上り基準(6)のみの登録自体が、特に負の遺産とは位置付けられていないヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ」(1981年)、「リラ修道院」(1981年)、「プエルトリコラ・フォルタレササンフアン国定史跡」(1983年)の3件の後、一時的に途絶えた次に基準(6)のみで登録されたのは原爆ドーム1996年)だが、その登録に際して委員会紛糾し中国日本以外アジア諸国被害過小評価しようとすることに利用されることへの懸念示しアメリカ合衆国日本「友人」としての立場主張しつつも、戦争遺跡世界遺産含めることには否定的な見解示した。このときの決議は、あくまでも和希求の象徴として評価基づいており、評価基準適用当たって「戦争」との関連直接的に示されていない。 そして、この件を境に基準(6)は他の基準との併用原則とする旨の条件付けなされたが、その条件付けロベン島の登録(1999年にあたって早速問題になった事前審査行ったICOMOS基準(6)について顕著な普遍的価値認めたものの、同時に提案されていた基準(3)については否定的評価下したからである。ICOMOS基準(3)ご都合主義的に盛り込むことに難色示していたが、委員会審議は、基準(3)適用することで決着したその後基準(6)の但し書き上記のように表現若干緩和されたが、ロベン島の登録以降基準(6)のみによって登録されたのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ初の世界遺産となったモスタル旧市街の古い地区」とモーリシャス初の世界遺産となったアープラヴァシ・ガート」のみである(2010年第34回世界遺産委員会終了時点)。これらは後掲リスト通り負の遺産分類されることがある

※この「登録の歴史」の解説は、「負の世界遺産」の解説の一部です。
「登録の歴史」を含む「負の世界遺産」の記事については、「負の世界遺産」の概要を参照ください。

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