発生経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 08:10 UTC 版)
永禄11年(1568年)2月8日、三好三人衆・阿波三好家と、松永久秀・三好家当主三好義継の権力抗争が続く中、戦いを優勢に進める三好三人衆方の推挙により阿波公方・足利義栄が第14代征夷大将軍(将軍)に就任した。しかし、室町幕府第13代将軍足利義輝の弟義昭は、これに抗い、同年9月、織田信長の軍事力を背景に上洛を果たし、同年10月2日、三好三人衆と阿波三好家の軍勢を阿波に追いやった。一方の松永久秀と三好義継は織田家に降った。10月18日足利義昭は第15代将軍に就任し、これにより、織田信長は将軍の後見人として権勢を振るうことになった。 永禄12年(1569年)1月、三好三人衆と三好笑岩が和泉に上陸、同5日に本圀寺の足利義昭、明智光秀を急襲したが、細川藤孝、三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重らの援軍に敗れ、再度、阿波に逃亡した(本圀寺の変)。 こうした足利氏 - 織田氏と、阿波三好氏 - 三好三人衆との対立とは別に、同1月、織田信長は義昭の行動を制約する殿中御掟を出している。内容は信長が擁立した義昭を自身のコントロール下に置くことを目的としたものだったが、義昭は各地に密書を出すなど、これを無視して動くことがままあった。そして、形式的には臣下である信長に縛られることを嫌った義昭と、コントロールしようとする信長の間での対立は深刻化していくことになる。ただし、「信長が擁立した義昭を自身のコントロール下に置くことを目的とした」とする史料的な根拠はなく、あくまでも室町幕府の立て直しのために義昭との合意の上で出されたものだとする反論が近年相次いで出されている。 永禄12年2月、播磨の赤松政秀が織田信長に救援を要請。8月から9月にかけて義昭・信長の派遣した池田勝正、別所安治が浦上宗景を攻める。同時に、密かに信長と内通していた宇喜多直家も浦上宗景に対して反旗を翻した。しかし、義昭・信長勢は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に浦上宗景は信長方の赤松政秀の龍野城を追い詰め、11月には政秀が降伏、宇喜多直家もその年のうちに宗景に謝罪して浦上家の傘下に戻っている。
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