発展から引退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 06:23 UTC 版)
明治3年(1870年)、東京日本橋に店舗を開き、翌年には東京店(丸屋善七)の隣に唐物店、大阪店(丸屋善蔵)を開業し、その次の年には京都店(丸屋善吉)を開業するなどして、事業を拡大する。さらには、貿易商会としてウラジオストク、ニューヨークに支店を、ロンドン、リヨンに出張所を開設するまでになった。明治6年(1873年)、故郷の恩人である庄屋・高折善六に謝意を表すべく店名を丸善に改称。内務省衛生局御用係となり、横浜司薬場設置長となる。 明治13年(1880年)3月、株式会社となり、有限責任丸屋商社とし、明治8年(1875年)の早矢仕有的の東京移転後、事実上の本店になっていた東京支店を正式に本店としたときには、会社定款で書籍、薬品、舶来雑貨の三科を本業とし、裁縫、家具製造の二科を余業としていた。 輸入書籍や文具を取り扱う大型書店として発展させる一方、明治12年(1879年)、丸家銀行を創設し金融にも進出する。同年の横浜正金銀行の創立願書には、総代中村道太と共に発起人の一人として名を連ねた。丸家銀行は書店業から顧客の信頼を得、産業振興をめざす山形県の有力者などから資本や預金を獲得したが、明治17年(1884年)に松方デフレの影響と近藤孝行頭取の乱脈経営によって経営が破綻し、早矢仕は再建を目指して丸善社長を辞して銀行頭取に就任するが、結局、再建できず責任を取り退陣した。その後、丸善は文房具、書籍販売の本業に経営の力点を焦点化することで経営を再建した。
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