異例の再審
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1948年12月23日、長女・祈子が誕生したが、同日、横浜の第八軍事法廷において絞首刑の判決を受けた。家族は父の知人であった片山哲や、トルストイの三女でアメリカ合衆国に亡命していたトルスタヤなどに依頼し、再審請求の嘆願を行い、また独自に判決を不当とする証拠や証言を集めた。YWCA・YMCAの長老などからも、哲太郎助命嘆願運動への支援が寄せられた。 1949年5月11日、哲太郎の妹である不二子はダグラス・マッカーサー元帥への直訴に及び、不二子はマッカーサーとの面会を許され、助命嘆願文を手渡した。その中で、哲太郎は東京裁判では自分が逃亡を図った俘虜に最初の一撃を与えたと陳述したが、この時間の哲太郎は病院で別の俘虜の盲腸炎手術に立ち会っており、アリバイがあることなどが主張されていた。5月16日、マッカーサー元帥により、異例の再審が認められた。その結果、加藤に好意的な米国人俘虜の証言が発見されたことも手伝い、6月24日、改めて終身刑の判決が下され、即日禁錮三十年に減刑された。より正確には、書類審査による再審は加藤の他にも少なくなかったが、マッカーサー直々に原判決を破棄したのは、これが唯一の例である。 ただし、A級戦犯の被疑で収監されていた笹川良一の日記によれば、獄中で同室した人物からの話として、昭和21年(1946年)3月9日付で「脱走二回の浮虜〔ママ〕を死刑する時加藤中尉所長より銃剣を突けと命ぜられたが断り、俘虜が突かれて倒れるのを起した。(中略)所長逃げたため人質の如きもので投獄されてゐる」と書き記している。これによれば、加藤はみずから手を下しはしなかったが、処刑は命じたことになる。
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