用地の開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 21:54 UTC 版)
土地の土壌と気候に応じて、低湿地には水田(レー)、高地には庭園(ウイン)、冠水する低地には沖積地(カイン)、水の確保が困難な土地には畑(ヤー)、以上4種の農地が開拓された。さらに水田は冬季栽培用のムインと栽培に雨季の降水が必要なタンに細分された。牛、水牛、馬が耕作に使用され、収穫物は米、ヒヨコマメ、ゴマ、ココヤシ、バナナなど、碑文の記録により現在77種類が判明している。 国が推進した大規模な灌漑、国内で流行していた仏教建築は王都の土壌に変化をもたらした。ビルマ史家ハーヴェイは王朝滅亡の一因にパガンからの人口流出を挙げ、それには土壌の変化が深く関わっていたことを指摘した。仏塔の建築に要する煉瓦の燃料となる木材の乱伐、チャウセーでの大規模な灌漑によってパガンの土壌は建設当時以上に痩せており、モンゴルによる破壊と共に食糧の供給量が減少したことで、王都の人口流出が進んだとしている。 農業がおこなわれていた範囲について、ビルマ史家タントンは王朝全体の農地の面積を8.8万ヘクタールから44万ヘクタールと計算し、英領化された直後である1892年当時のビルマ全体の農地面積(3640000ヘクタール)の40分の1から8分の1ほどの広さだった。しかし、その多くは寺院の私領地であり、寺領が増大する王朝後期は税収の減少が問題となる。そのためチャゾワーなどの王たちは寺領への課税を試みたが、寺院の反対によって失敗に終わっている。
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