生野の変・処刑
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情勢が再び勤王派に有利となった文久3年(1863年)3月に釈放された。この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。8月16日、京へ上っていた国臣は学習院出仕に任ぜられた。この頃の学習院は三条実美を中心とする攘夷派公卿の政策決定の場となっており、格式も高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった。 17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。 急ぎ京へ戻るが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていた。国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。故郷の福岡藩で活動していた筑前勤王党の月形洗蔵や鷹取養巴らを訪ね、出奔して共に決起することを求めたが月形らに断られたことで、国臣は月形洗蔵ら5名に永訣状を送って、その不甲斐なさを批判している。その後、但馬国の志士北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画した。周防国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿・澤宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管・河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入った。この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切った。10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2,000人が集まり意気を挙げた。 だが、幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の澤が逃げ出してしまった。農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図るが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎につながれた。 元治元年(1864年)7月、禁門の変を端にして発生した火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。処分は未決状態ではあったが、他の30名以上の囚人とともに斬首された。享年37。明治24年(1891年)、正四位を贈られた。 福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。同じく、京都霊山護国神社にも墓碑および石碑が建立されている。 国臣の生家があった場所のすぐ近くに国臣を祀る平野神社(福岡市中央区今川1丁目)がある。 福岡市早良区の福岡市博物館には平野国臣の横笛が二本展示してある。
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