生野の変・処刑とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 生野の変・処刑の意味・解説 

生野の変・処刑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:34 UTC 版)

平野国臣」の記事における「生野の変・処刑」の解説

情勢が再び勤王派に有利となった文久3年1863年3月釈放された。この頃京都では長州藩攘夷派公卿結んで朝廷牛耳り、天誅呼ばれる暗殺事件頻発していた。そして、理論家真木和泉画策し大和行幸勅命が下る。天皇攘夷親征決行する計画であった8月16日、京へ上っていた国臣は学習院出仕に任ぜられた。この頃学習院三条実美中心とする攘夷派公卿政策決定の場となっており、格式高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった17日、国臣は三条から中山忠光吉村寅太郎らの天誅組制止命じられた。天誅組大和国五条天領代官所襲撃し挙兵していたのである19日、国臣は五条到着するが、その前日8月18日政局一変してしまっていた。会津藩薩摩藩結託して政変起こし長州藩退去させ、三条攘夷派公卿追放してしまったのである八月十八日の政変)。 急ぎ京へ戻るが、すでに京の攘夷派壊滅状態になっていた。国臣は未だ大和戦っている天誅組呼応すべく画策故郷福岡藩活動していた筑前勤王党月形洗蔵鷹取養巴らを訪ね出奔して共に決起することを求めた月形らに断られたことで、国臣は月形洗蔵ら5名に永訣状を送って、その不甲斐なさ批判している。その後但馬国志士北垣晋太郎連携して生野天領での挙兵計画した周防国三田尻へ赴き、長州藩庇護されていた攘夷派公卿澤宣嘉主将迎え、元奇兵隊総管河上弥市30数人浪士とともに生野入った。この時点天誅組壊滅しており、国臣は挙兵中止主張するが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派押され挙兵踏み切った10月12日生野代官所無抵抗降服農民募兵呼びかけて2,000人が集まり意気挙げた。 だが、幕府の対応早く翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日夜に主将の澤が逃げ出してしまった。農民たちは騙された怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図るが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎つながれた。 元治元年1864年7月禁門の変を端にして発生した火災どんどん焼け)は京都市中に広く延焼獄舎に火が及び、囚人脱走し治安を乱すことを恐れた京都所司代配下役人囚人処刑決断処分未決状態ではあったが、他の30名以上の囚人とともに斬首された。享年37明治24年1891年)、正四位贈られた。 福岡市中央区西公園銅像が、京都市上京区竹林寺に墓がある。同じく京都霊山護国神社にも墓碑および石碑建立されている。 国臣の生家があった場所のすぐ近くに国臣を祀る平野神社福岡市中央区今川1丁目)がある。 福岡市早良区福岡市博物館には平野国臣横笛二本展示してある。

※この「生野の変・処刑」の解説は、「平野国臣」の解説の一部です。
「生野の変・処刑」を含む「平野国臣」の記事については、「平野国臣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「生野の変・処刑」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「生野の変・処刑」の関連用語

生野の変・処刑のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



生野の変・処刑のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの平野国臣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS