現代音楽祭の開催
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「二十世紀音楽研究所」の記事における「現代音楽祭の開催」の解説
1957年8月に第1回現代音楽祭を軽井沢の星野温泉ホールで開催することになり、研究所では楽譜の整備、出演者の交渉、放送・出版関係への支援依頼などの準備を進めた。音楽祭の事務は音楽芸術家協会に委託し、参加者の受付を始めた。8月にはいると軽井沢の会場でアンサンブル練習を開始し、10日の開会式を迎え、ベルクの『抒情組曲』第3楽章がパレナン弦楽四重奏団により演奏された。11日から13日までの音楽祭では、「ウェーベルンの夕」「若い世代の夕」「現代巨匠の夕」と銘打った演奏会と共に、関連するテーマの講座や公開討論会が行われた。演奏は岩淵龍太郎が主宰するプロムジカ弦楽四重奏団、この音楽祭のために編成された現代音楽祭室内管弦楽団(指揮は森正)などであった。参加者は352名、このほかに主催者や出演者は60から70名であった。演奏の大半は9月に『NHKラジオ・リサイタル』で4回にわたり放送された。 第1回の音楽祭は十二音技法のウェーベルンを特集したが、翌1958年の第2回現代音楽祭ではミュージック・セリエルの創始者メシアンが取り上げられ、1959年の第3回ではさらにその典型的後継者ブーレーズが特集のテーマとなった。一方でこの第3回には十二音音楽に与しない武満徹を所員に迎え、湯浅譲二、福島和夫の作品もプログラムに入れられた。また指揮者岩城宏之とピアノの小林仁も所員に加わった。なお、第2回では作曲コンクールが行われ、武満徹『ソン・カリグラフィー』と松下真一『室内コンポジション』が入選した。 第3回までの会場は軽井沢であったが、1961年の第4回は大阪で行われ、帰国したばかりの一柳慧を迎えて、ジョン・ケージなど「アメリカの前衛音楽」が特集された。この回からは講座が廃止され、演奏会のみの音楽祭となった。1963年に京都で開催された第5回からは、一柳と松下真一が所員に加わり、「現代日本作品の夕」では石井眞木、高橋悠治の作品も取り上げられた。また「現代イタリア音楽の夕」ではベリオ、ダッラピッコラ、ノーノなどの作品が演奏された。そして1965年に東京で第6回が開催されたが、特集はたてられず、音楽祭もこれが最終回となった。
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