王政復古後のヘンリエッタ・マリア
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「ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の記事における「王政復古後のヘンリエッタ・マリア」の解説
護国卿オリバー・クロムウェルの死去後間もなくイングランド共和国は瓦解した。イングランド議会はチャールズの国王即位を承認し、1660年5月にチャールズがイングランド王チャールズ2世として戴冠後(イングランド王政復古)、ヘンリエッタ・マリアも同年10月に、ヘンリエッタ・アンとともにイングランドへ帰還した。ヘンリエッタ・マリアがイングランドに戻った理由の一つとして、クラレンドン伯エドワード・ハイドの娘アンと、王弟であるヨーク公ジェームズ(後のイングランド国王ジェームズ2世)との密通が挙げられる。アンはすでに妊娠しており、ジェームズはアンに結婚を申し込んでいたのである。ヘンリエッタ・マリアは以前からエドワード・ハイドを嫌っており、その娘アンを公妃として迎えることに難色を示したが、チャールズ2世が賛同したためにこの婚姻は成立した。イングランドでのヘンリエッタ・マリアは潤沢な宮廷費を与えられて、サマセット・ハウスを邸宅とした。イングランドに帰還してからも、大衆からのヘンリエッタ・マリアの人気は相変わらず低く、詳細な日記を残したサミュエル・ピープスはヘンリエッタ・マリアの美点としてわずか3つの取るに足らない事柄しか挙げていない。 1661年にヘンリエッタ・マリアは、末娘ヘンリエッタ・アンと、フランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップとの結婚をまとめるためにフランスへと渡った。この二人の結婚はイングランドとフランスの関係強化に大きな役割を果たすことになった。 ヘンリエッタ・アンとフィリップとの婚礼を見届けると、ヘンリエッタ・マリアは1662年にチャールズ2世、ルパートとともにイングランドへと戻った。ヘンリエッタ・マリアはそのままイングランドで一生を過ごすつもりだったが、1665年にひどい気管支炎を患い、これは湿気の多いイングランドの気候が原因ではないかと考えた。ヘンリエッタは同年にフランスへと渡り、パリのオテル・ド・ラ・バジニエール(現在のオテル・ド・シメイ (en:Hôtel de Chimay) で暮らすようになった。1669年8月にヘンリエッタ・アンとオルレアン公フィリップの次女アンナ・マリーアが生まれている。アンナ・マリーアは後のフランス王ルイ15世の母方の祖母にあたり、ヘンリエッタ・マリアの血筋は現在のヨーロッパ諸国の王族のほとんどと関係していることになる。そして、アンナ・マリーアの誕生後間もなくの1669年9月10日に、ヘンリエッタ・マリアはパリ近郊のコロンブ城で死去した。死因は鎮痛剤として服用していたアヘンの過剰摂取だった。ヘンリエッタ・マリアの遺体は歴代フランス王族の墓所サン=ドニ大聖堂に埋葬され、心臓のみ銀の小箱に収められてヘンリエッタ・マリア自身がシャイヨーに建てた女子修道院に葬られた。 フランス王家のヘンリエッタ・マリアの親族
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