王政復古の大号令とは? わかりやすく解説

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王政復古の大号令 (おうせいふっこのだいごうれい)

大政奉還たいせいほうかん]の後に、長州薩摩両藩が中心となって出させたもので、幕府廃止し天皇のもとに新たな職を置いて有力な藩が共同政治を行う形をとるようにしました

関連項目

王政復古の大号令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:30 UTC 版)

小御所会議」の記事における「王政復古の大号令」の解説

詳細は「王政復古 (日本)」を参照 上記のような閉塞状況打破するため、大久保利通岩倉具視秘かにクーデター計画を練る。12月8日夕方から深更にかけて行われた朝議で、毛利敬親長州藩主)・広封(同世子)の官位復活入京許可三条実美八月十八日の政変追放された5人の公卿赦免、および岩倉謹慎中の公卿処分解除決定された。翌9日未明公卿たちが退廷した後、待機していた薩摩藩土佐藩広島藩尾張藩福井藩の5藩の軍が御所9門を固め摂政二条斉敬をはじめ要人御所への立ち入り禁止した後、明治天皇臨御の下、御所内学問所において王政復古の大号令が発せられた。新政権樹立天皇親政をうたい、摂政関白征夷大将軍職の廃止新たに総裁議定参与三職を置くなどの方針発表された。これにより、二条摂政中川宮朝彦親王ら親幕府的な公卿発言権を失うことになった。 この大号令受けて早速、新設三職小御所召集し12月9日18時頃から小御所会議が行なわれた。

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王政復古の大号令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:25 UTC 版)

王政復古 (日本)」の記事における「王政復古の大号令」の解説

「王政復古の大号令」の内容以下のとおりである。 (慶応3年10月24日徳川慶喜申し出た将軍職辞職勅許京都守護職京都所司代廃止幕府廃止摂政関白廃止新たに総裁議定参与三職をおく。 徳川內府徳川内大臣徳川慶喜)、從前委任大政返上大政奉還)、將軍職辞退之兩條、今般斷然聞食候。抑、癸丑1853年嘉永6年)=黒船来航以來未曾有國難 先帝孝明天皇頻年被惱 宸襟御次第衆庶之知所候。依之被決 叡慮王政復古國威挽囘ノ御基被爲立候間、自今攝關幕府等(摂政関白幕府等)廢絕即今先假總裁議定參與三職被置萬機可被爲行、諸事 神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至當公議竭シ、天下休戚ヲ同ク可被遊 叡慮ニ付、各勉勵舊來驕惰之汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國之誠ヲ以テ可致奉 公候事。一 內勅問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所司代總テ被廢候事。一 三職人總裁 有栖川帥宮中略一 太政官追々可被爲興候間其旨可心得居候事。一 朝禮式追々改正可被爲在候得共先攝籙門流せつろくもんりゅう摂関家)之儀被止候事。一 舊弊一洗ニ付、言語之道被洞開候間、見込之向ハ不拘貴賤、無忌憚、可致獻言。且人材登庸第一之御急務ニ候。故心當之仁有之候ハ早々可有言上候事。一 近年物價格別騰貴如何不可爲、勢富者益富ヲ累ネ、貧者ハ益窘急ニ至リ候趣、畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者大寶百事御一新折柄旁被惱 宸衷候。智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼申出候事。一 和御方先年關東降嫁被爲在候得共、其後將軍徳川家茂薨去先帝攘夷成功之 叡願ヨリ被爲許候處、始終奸吏詐謀出御無詮之上ハ旁一日モ早ク御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候事。右之通御確定一紙被 仰出候事。 — 王政復古の大号令(部分)、慶應3年12月9日1868年1月3日) この宣言は、12月14日諸大名に、16日庶民布告された。慶喜将軍辞職勅許し、一会桑体制支えてきた会津藩桑名藩を追うことで、慶喜新体制へ参入排しつつ、一方で従来からの摂政関白以下の朝廷機構政治権力復活させるのでもなく、五摂家頂点とした公家社会門流支配をも解体し天皇親政公議政治名分の下、一部公家と5藩に長州藩加えた有力者主導する新政府樹立するものであった

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王政復古の大号令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「王政復古の大号令」の解説

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇は王政復古の大号令を発し1.徳川慶喜将軍職辞職勅許。2.江戸幕府廃止摂政関白廃止総裁議定参与三職設置。3.諸事神武創業はじめに基づき至当公議をつくすことが宣言された。 徳川內府徳川内大臣徳川慶喜)、從前委任大政返上大政奉還)、將軍職辞退之兩條、今般斷然聞食候。抑、癸丑1853年嘉永6年)=黒船来航以來未曾有國難 先帝孝明天皇頻年被惱 宸襟御次第衆庶之知所候。依之被決 叡慮王政復古國威挽囘ノ御基被爲立候間、自今攝關幕府等(摂政関白幕府等)廢絕即今先假總裁議定參與三職被置萬機可被爲行、諸事 神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至當公議竭シ、天下休戚ヲ同ク可被遊 叡慮ニ付、各勉勵舊來驕惰之汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國之誠ヲ以テ可致奉 公候事。一 內勅問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所司代總テ被廢候事。一 三職人總裁 有栖川帥宮中略一 太政官追々可被爲興候間其旨可心得居候事。一 朝禮式追々改正可被爲在候得共先攝籙門流せつろくもんりゅう摂関家)之儀被止候事。一 舊弊一洗ニ付、言語之道被洞開候間、見込之向ハ不拘貴賤、無忌憚、可致獻言。且人材登庸第一之御急務ニ候。故心當之仁有之候ハ早々可有言上候事。一 近年物價格別騰貴如何不可爲、勢富者益富ヲ累ネ、貧者ハ益窘急ニ至リ候趣、畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者大寶百事御一新折柄旁被惱 宸衷候。智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼申出候事。一 和御方先年關東降嫁被爲在候得共、其後將軍徳川家茂薨去先帝攘夷成功之 叡願ヨリ被爲許候處、始終奸吏詐謀出御無詮之上ハ旁一日モ早ク御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候事。右之通御確定一紙被 仰出候事。 — 王政復古の大号令(部分)、慶應3年12月9日1868年1月3日

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