独立運動の崩壊とアグスティン・デ・イトゥルビデの遠征
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「メキシコ独立革命」の記事における「独立運動の崩壊とアグスティン・デ・イトゥルビデの遠征」の解説
情勢が安定してきたと感じた副王は、1820年、武器を捨てた反乱者には残らず恩赦を与えると布告した。10年間の内戦の疲れとイダルゴおよびモレーロスという独立指導者の死によって、1820年の初頭までに独立運動は行き詰まり、崩壊しつつあった。反乱軍やゲリラ組織は、スペイン軍の手強さと、社会的にもっとも影響力のある民族集団であるクリオーリョに広がった無関心によって困難な立場に置かれていた。イダルゴ軍やモレーロス軍など非正規軍による過剰な暴力や大衆迎合的な政治手法は、クリオーリョの間にあった人種闘争や階級闘争への恐怖を強固にしてしまっていた。クリオーリョらはより流血の少ない独立への道が見つかるまでは、保守的なスペイン植民地支配をいやいやながらでも黙認することに考えを決めていた。 1820年12月、弱体化した反乱軍に対する最後の作戦となるはずだった、ビセンテ・ゲレーロ軍に対する掃討が開始された。副王フアン・ルイス・デ・アポダカは王党派のクリオーリョであるアグスティン・デ・イトゥルビデ(Agustín de Iturbide)をオアハカへと派遣した。イトゥルビデはモレリア(バリャドリード)出身の土着白人で、独立革命の初期にミゲル・イダルゴやホセ・マリア・モレーロスらの強力な独立軍を手ひどく痛めつけて輝かしい戦果を収め、ヌエバ・エスパーニャ植民地政府やその支持者からは熱狂的な名声を集めていた。ヌエバ・エスパーニャのキリスト教会の権威からの覚えも良いイトゥルビデは、敬虔で宗教的で、所有権や社会的特権(フエロ)の守護に献身的に打ち込む、保守派クリオーリョの価値観の化身であった。もっとも、クリオーリョの彼は出世や富への道を閉ざされていたことに強い不満を持っており、独立派ゲリラへ共感を覚えていた。
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