物置小屋での生活・抹香町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 22:55 UTC 版)
「川崎長太郎」の記事における「物置小屋での生活・抹香町」の解説
小田原に戻ると、実家の、漁師の網や魚箱をいれるためのトタン葺きの物置小屋で生活をするようになる。物置小屋に畳を二畳敷いてその上に座り、ビール箱を机のかわりにして執筆した。電気や水道は引かれておらず、洗面などは市設の公衆便所で済ませて、冬は蝋燭で暖をとった。物置小屋暮らしを始めてから結婚するまでの間、小田原のだるま料理店の常連となり、日に一度、ちらし丼を食べた。小田原市立図書館に通い雑誌を閲覧し、また友人の、元文学志望の小田原駅前の書店の店主から雑誌を借り受け、通信社の文芸時評の記事を仕上げる。 1943年に、田畑修一郎が心臓麻痺で急逝、徳田秋声も癌により逝去する。家督を継いだ弟の家に出向いて、中風で寝たきりだった母・ユキを看病していたが、1944年にユキは喉に痰を詰まらせて亡くなる。通信社から請け負っていた文芸時評の仕事を失い、ほとんど無収入で、パンや弁当の折詰を万引きして食いつなぐような困窮した生活をおくっていたところ、1944年、海軍運輸部に徴用される。横須賀で軍用人足として力仕事をする。その後、小笠原父島に派遣されるが、ほどなく敗戦を迎えて内地に帰還し、小田原の物置小屋に戻る。 戦後、出版業界が活況になると、小説の執筆依頼が増え始める。物置小屋から小田原の赤線地帯である抹香町へ通い、そこでの娼婦との触れ合いをもとにして「抹香町もの」と呼ばれる一群の作品を書き始めると好評を博し、流行作家となる。1954年に『抹香町』『伊豆の街道』を出版し、宇野浩二を囲む「日曜会」の主催で東京ステーションホテルで大規模な祝賀会が開かれる。特異な生活をおくる川崎にジャーナリズムは好奇の目を向け、「長太郎ブーム」がおきる。物置小屋に人妻、女給、未亡人、妾などさまざまなファンの女性が来訪するようになり関係をもつ。彼女たちとの交わりを小説の題材にしていくが、徐々に人気に陰りがでる。1958年、売春防止法が完全施行されて抹香町が消える。1961年には宇野浩二が逝去している。
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