物価高騰と生活苦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:33 UTC 版)
「大戦景気 (日本)」の記事における「物価高騰と生活苦」の解説
賃金や俸給は物価に見合って上昇したわけではなかったので、多くの場合、労働者、サラリーマン、官吏の生活はかえってきびしいものとなった。「職工中の成金」といわれた造船労働者には、1913年から1917年までのあいだに161パーセントもの増収となった者もいたが、平均すると47パーセントも下落しており、生活費の高騰を考慮すると、それ以上の生活苦であった。富山県の漁村より始まった1918年米騒動が全国に波及していった背景には、インフレによる生活難があったのである。高度経済成長期の賃金上昇が消費者物価の上昇率をうわまわって所得分配の平等化を促したのに対し、このときの好況は、物価高騰が賃金の上昇をうわまわったために、所得分配は不平等なものとなり、社会の緊張をむしろ激化させた。 下層の人びとの生活は困窮し、大都市ではスラム街が形成され、また、いたるところに質屋があって隆盛し、小学校に入学したばかりの学童も家計を助けるために働いた。欠食児童も多く、朝食ぬきで登校する学童も多かった。官公吏は、その待遇のわるさから、民間に転職することも流行した。妻の内職は当然のことであり、避妊具を購入する吏員が増え、当時の法で禁じられている人工中絶さえおこなわれた。大阪市では、外勤の警察官150余名が結束して当局に生活苦を訴える嘆願書を出す事態が発生している。小学校の教員は低収入・栄養不良が原因で結核に感染するケースが多く、結核は教員の死因の3分の1におよび、社会問題化した。 経済学者河上肇がベストセラー『貧乏物語』を『大阪朝日新聞』紙上に連載したのも、大戦景気のさなかの1916年であった。ここで河上は、貧乏人が貧乏であることは決して当人の責任ではなく、資本家や「成金」と呼ばれる人びとの奢侈にこそ元々の原因があると主張し、かれらの道徳的自覚を求めた。 大阪では市役所を中心に公的な労働者福祉事業が本格化し、公設市場・簡易食堂・共同宿泊所などが設けられ、方面委員制度も実行にうつされた。1920年前後に高揚したストライキの影響を受けて、住友系工場が他の工場にさきがけて終身雇用や年功序列を柱とする新たな労務管理を採用しはじめている。
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