煙突掃除と集塵装置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
「日立鉱山の大煙突」の記事における「煙突掃除と集塵装置」の解説
煙害の主因は亜硫酸ガスの排出であるが、前述のように排煙中に含まれる鉱石や金属の微粒子である煙塵も原因の1つである。そのため煙突には通常煙塵を除去することを目的とした沈降室が設けられたり、日立鉱山の大煙突のような長い煙道を設けたりした。煙塵にもわずかな重力が働くため、長大な煙道を移動していく間にその多くが沈降する。その結果、大煙突から排出される時点では煙塵の多くが除去されているという仕組みである。ところで煙塵内には多くの金属が含まれており、日立鉱山では正月と7月の山神祭の休日を利用して煙道から煙塵を回収する慣例となっていた。日立鉱山の場合、煙塵内に銅の他に金、銀が多く含まれており、昭和戦前期の戦時体制が強化される前は、このいわゆる煙突掃除で回収した金、銀、銅で山神祭の経費を賄っていたとの記録も残っている。 やがて沈降室や長大な煙道によっても除去しきれない煙塵を回収することを目的として、集塵装置がつけられるようになった。日本の主力銅鉱山の中ではまず足尾銅山が1918年(大正8年)、アメリカのコットレルが発明したコットレル式の集塵装置を導入した。このコットレル式集塵装置は電気集塵機であり、足尾銅山に続いて別子銅山で採用され、良好な成績を挙げた。日立鉱山では1936年(昭和11年)、コットレル集塵機を煙道中ほどにある第3煙突手前に設け、煙塵を除去することになった。このコットレル集塵機の完成によって煙塵の9割以上が回収されるようになり、集塵機で回収された煙塵は毎日採取されて溶鉱炉へと戻されていた。 コットレル式集塵装置の採用後の1939年(昭和14年)、かつて煙害対策の一環として明治末年から大正初期にかけて取り組まれた理化学的方法による亜硫酸ガス除去の第一歩がなされることになった。ルルギ式硫酸工場の完成である。日立鉱山では硫化鉱としては販売が困難な硫黄分35パーセント程度の含銅硫化鉄鉱を産出していた。これは硫化鉱として販売するのには硫黄分が低すぎる半面、日立鉱山の通常の製錬ルートで処理を行うには硫黄分が多すぎるため関係者を悩ませていた。銅を含んでいる鉱石であるため無理をしながら製錬に回していたのであるが、硫黄分が多いため亜硫酸ガスの発生もまた多量となり、まさに頭痛の種であった。ルルギ式接触法を採用した硫酸工場の完成後は、この硫黄分35パーセント程度の含銅硫化鉄鉱を原料として硫酸を製造し、硫酸製造後に製錬に回されるようになった。このように硫酸工場の稼動開始によって、かつて挫折した理化学的方法による亜硫酸ガス除去の実効的な取り組みが始まった。
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