無鄰庵会議とは? わかりやすく解説

無鄰庵会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 15:02 UTC 版)

無鄰菴」の記事における「無鄰庵会議」の解説

満洲還付条約」も参照 この洋館2階の間は、しばしば要人との会見用いられた。日露戦争開戦前1903年明治36年4月21日にはここでいわゆる無鄰菴会議が行われた。その時顔ぶれは、元老山縣有朋政友会総裁伊藤博文総理大臣桂太郎外務大臣小村寿太郎である。 当時ロシア帝国強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大進めていた。は、ロシア満州における権利認めても、朝鮮における日本権利ロシア認めさせる、これを貫くためには対露戦争辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意伊藤山縣から取り付けようとした。 徳富蘇峰は『公爵山縣有朋傳』で意図を以下のように著述している。 は、一方には此の報告あり、他方には露国北朝鮮経営警報接したので、此際対露政策決定するの、最も急なるを痛感せざるを得なかった。而して小村謀り、公の黙契得て決定した方針は、露国満州に於ける条約上の権利は之を認むるも、朝鮮に於いては、彼をして我が帝国に十分の権利あることを認めしむるにあった。然かも我にして、此の目的貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からずと云ふにあった この時は、「満韓交換論」とも言うべき対露方針についてを伊藤山縣から同意とりつけた。以下はその時の「対露方針個條」である。 露国にして、満州還付条約履行せず、満州より撤兵せざるときは、我より進んで露国抗議すること。 満州問題を機として、露国其の交渉開始し朝鮮問題解決すること。 朝鮮問題に対しては、露国をして我が優越権認めしめ、一歩露国譲歩せざること。 満州問題に対しては、我に於て露国優越権認め、之を機として朝鮮問題根本的に解決すること。 この後、この「満韓交換論」に基づく対露直接交渉方針は、山縣伊藤大山巌松方正義井上馨下村山本権兵衛寺内正毅出席した6月23日御前会議提出され上記方針基づいて対露交渉に臨むことが確認された。国内には当時すでに「露国討つべし」の世論高まりつつあったが、元老政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争という破局避けよう模索していた。

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