火災被害からの再建、渋沢栄一の理事長就任
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「滝乃川学園」の記事における「火災被害からの再建、渋沢栄一の理事長就任」の解説
その後、学園の周辺環境の変化により、滝野川(現・東京都北区)から、巣鴨(現・豊島区)に移転し、学園の財政に苦慮しながらも、社会的認知も広まりつつあり、石井の事業は軌道に乗りつつあった。しかし、1920年3月、園児の失火が原因で、学園は火災に被災し、園児6名が焼死する惨事に直面する。石井は学園の閉鎖を一旦は決意するに至った。この状況を聞いた貞明皇后は、直ちに皇后宮使・三室戸敬光子爵を学園に派遣し、石井夫妻に、内旨と金一封の御下賜金を贈り、強く再起を促したほか、支援者たちからも義援金が贈られ、石井は学園の再建を決意した。 以前から、学園の窮状に同情した支援者たちは、学園を石井の個人事業から法人化することにより、経営を近代化し、石井の負担軽減と財政の安定を図るべく計画を進めていた。その結果、財団法人の認可が下り、「財団法人滝乃川学園」が設立され、公益法人として活動していくこととなった。初代理事長には、中尾太一郎海軍軍医総監が就任したが、その後間もなく第3代理事長として、渋沢栄一が就任した。このとき、慈善事業に理解が深かった渋沢は、「石井さんには、園児たちの教育に専念してもらい、学園の経営は私たちで何とかする」と言ってみずから理事長の職を引き受けたのであった。 その後、1928年には、成人した学園生が自活のために働ける農場を提供するため、現在地の北多摩郡谷保村(現・東京都国立市)の大隈重信が別荘予定地としていた8,000坪近い土地を新たに取得し、法人本部事務所と児童研究所など一部の施設を残して、再移転した。この移転は、園児や園生に最適な環境を提供したり、無医村であった当地に常勤医と診療所を有する学園が移転したことで地域医療に貢献した一方、新たな土地の購入資金とするはずであった巣鴨の土地の売却が難航し、学園の財政に過大な負担を生じさせることになった。 1934年には学園本館において日本精神薄弱児愛護協会(現・日本知的障害者福祉協会)が創立され、学園長の石井が初代会長に選出された。1937年には秩父宮雍仁親王と勢津子妃が学園を訪問し、事業を視察した。
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